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 前回記事から引き続き、「不食」についての話題です。

 「人は食べないと生きていけない」という大原則は、生き物として絶対に不可避なはずなのだけど――、ところが現実に、何も食べずに普通の生活している人が、世界中に何万人もいるという。
 そしてその実践者は口々に、「不食は思っていたより簡単だ」といったことを述べている。


 で、これは以前のブログ記事でも触れたことだけど――、不食をさまたげる最大の障害というのは、実は飢餓感ではなくて、何と「暇」なのだという。
 食べる時間も、料理や後片付けの時間も、さらには材料の買い物や食べることについて考える時間さえも必要ないとなると、人生の日々に驚くほど大きな「空き時間」が生じるそうだ。

 不食生活を記した『リビング・オン・ライト』の著者であるオーストラリア人女性のジャスムヒーン氏は、不食をマスターする過程で最も重要なのは「退屈さを克服することだ」と述べている。

 また『食べない人たち』の共著者の1人である山田鷹夫氏も、「不食は本当に暇で困る。その結果、精神が爽快でないとき、それをごまかすためについ食べてしまうのだ」と語っている。


 山田氏は、沖縄の無人島に行って不食生活を続けるという何ともすごいチャレンジをして、その体験談を『無人島不食130日』と『食べない人たち ビヨンド』の本に記している。
 この中で、「暇」という自らの心理状況についてとてもありありと描写していて、普通に食べて生活している私たちが読んでも、「なるほど、そういう感じなのか」と思わせるものがあります…。

 南洋の無人島というと、手つかずの大自然と、何にも束縛されない自由があるし、そのうえ「食べることさえ必要ない」となると、まるでこの世ではないユートピアという印象だ。
 山田氏も、その解き放たれた体感をこうように語っている。

 「不食の次にやってきたのは『無為』である。何かをしなくてはならないという呪縛から解放され、何もしなくても幸福でいられるのだ。人は『食べても食べなくても』生きられるように、『働いても働かなくても』どちらでも幸せなれることが分かるのである。
 奴隷のように追い立てられる毎日はいらない。働かなければ幸せになれないというのも間違いだ。だが日本人は、これまでそうして生きてこざるを得なかった。それは僕の親世代の生き方でもあったろう」


 人生観を書き換えるくらいの自由と幸せって、素晴らしいですよね。
 しかし同時にそれは、普段の生活ではありえないほどの「暇」でもあるのだ…。

 「無人島の不食者は本当に暇だ。唯一の行為といえば、暇を意識することだけ。無限とも思えるほどの大量の暇に圧倒されそうだった」――


 この「暇を意識することだけ」というのが、本当にほかにやることも、何か関心を向ける対象さえも全くないという、実に生々しい印象…。

 そこで山田氏は暇をつぶすために、漂着物で散らかっている海岸のゴミ拾いを始める。
 ちなみに当人は「きれい好きな性格」というわけでは全然ないそうで、ふだん家の中では散らかり放題の暮らしをしているという。でもそんな性格を覆してしまうくらい、時間とエネルギーを持て余してしまうのだろう。

 さらには毎日、3時間も砂浜をランニングしたという。何も食べていないのにですよ…。


 ところが、退屈しのぎに浜辺を散策していると、そこには珍しい海の生き物たちが色々といる(山田氏はふだん新潟県の山地に住んでいる)。
 それに興味を引かれて、採取してみる。

 やがて、好奇心とあまりの退屈さのために、とうとうそれをさばいて口にしてしまう…。

 「初めての無人島と、海というフィールドで見つける貝や魚は新鮮だった。珍しいから手に取ってみる。手に取ると捨てがたく――、つい食べてしまった」


 そうして、せっかく沖縄の無人島にまでやって来たのに、完全な不食生活は断たれてしまったわけだ…。

 ただし、不食の考え方では、それで「禁を破った」とか「もとの木阿弥」ということにはならない。
 小魚や貝を何匹か食べても、生存に必要な摂取カロリーにはまったく足りない。食べ物からのエネルギーではなく、宇宙に満ちる「プラーナ」を取り入れて生きているという事実に変わりはないわけだ。

 それで元気に生きて、毎日砂浜をランニングしているのだから、十分に驚異的すぎる…。


 山田氏はすでに何年も不食の生活をしているから、空腹の苦しみはないし、わざわざ食てみべる必然性もゼロである。
 ところがその熟達した不食者の意志以上に、何が何でも暇を埋めようとする「マインドの力」のほうが強かったとも言える。
 本人はこう語っている――

 「島の樹の上でぼんやりしていると、『無為』つまり何もしないことの対極にあるのが『食』であることもよく分かってきた。暇が最大のくせものなのだ。
 けっきょく私が何を恐れていたかというと、それは暇ということになる。その恐れから逃れる最善の方法が、食なのだ。その証拠に、海岸のゴミ拾いでは満たされない充実感を、食によって味わうことができた。
 そのとき、現代人が最も嫌がっているのは暇であることを痛感した。暇な人ほどよく食べる。現代人はひたすら食べ続けることによって、時間を埋めている」――


 「食べる」という、生き物として最も根底にある欲求から解放されても、「暇を埋める」という欲求のほうは、ずっと尽きないわけですね…。

 まさにマインドは、「三度のめし」よりも、とにかく「暇を埋める」ことこそが大好きで、四六時中そのことに躍起で必死なのだ。


 そして、この際限ない欲望を満たし続けるために――、
 ありとあらゆる食べ物や飲み物が社会に供給され、さまざまな種類のレジャーや刺激的なエンターテインメントが開発され、そして本やテレビ、最近ではツイッターやフェイスブック、ユー・チューブなどの新しい情報媒体もどんどん生み出されてきたわけだ。
(もちろん、このようなブログだってそうですが…)


 では、どうして私たちの心には、そこまでして徹底的に「暇を埋めなくてはならない」という欲求が強固にあるのか?…

 それは、暇や退屈の向こうに、マインドにとってものすごく不都合な真実――、分離したエゴ意識にとってまさに致死的ともいえる真実が秘められているからだといえる。


 ここからは話がガラッと転換するけど、OSHOの講話集『Joy(喜び)』の中で次のように語られている。
 これは以前にも触れたことがある内容で、やや長めになるけど、あらためて紹介しますね――。

 「『退屈』は、人間の生活の中で最も重要なことだ。それは、大いなる理解があなたの中に生じつつある兆しであり、覚醒にどんどん近づいたときに起こるものだ」

 「あなたは退屈に対して、2つのやり方で対応することができる。
 1つは、退屈と向き合わずに、何か自分が夢中になれるものへと逃げ込むことだ。
 大食いしたり、音楽を聞いたり、あなたが逃げ込めるものは無数にある。人々がアルコールや薬物を発明した理由もそこにある。しかしそれらは、ほんのしばらくの間、退屈を避けられるに過ぎない。
 退屈は何度も何度も襲ってくる。本当に逃れることはできない。それは人間の成長の一部であり、それに直面しなければならないのだ」

 「もう1つのやり方は、退屈と一緒にいて、それになりきり、それについて瞑想することだ。
 つまり瞑想とは『退屈に正面から向かうこと』なのだ。瞑想者は黙って座り、ハラを見据え、呼吸を観察する。彼はこういうことを楽しんでいると思うかね? 彼はまったく退屈しているのだ!
 禅のマスターが棒を持って歩き回るのは何のためかといえば、退屈した人々は居眠りをしてしまうからだ。禅の修行者に逃げ道はない。しかし彼らにも、たったひとつだけ逃げ道が残されている。それが眠ることで、それによってすべてを忘れる。だから瞑想中に人は眠くなるのだ」


 かつてバブル期に「くう、ねる、あそぶ」という広告コピーがはやって、そういうのは自由気ままでいいなと感じたものだけど…、
 要は「遊ぶ」ことはマインドが退屈から逃れるためのものであり、そして「食べる」こともまた、さらに場合によって「眠る」ことさえも、退屈に直面しないための逃げ道であったりもするわけだ。

 それは自由気ままというより、むしろ逆に、マインドが私たちに真実を見せないように、そしてうまく支配を続けていくために、そういうことをしているのだとも言える…。


 では、その耐えがたい退屈と向き合ったならばどうなるのか、OSHOは次のように語っている――

 「退屈から逃げずに直面するには、大きな勇気がいる。それは実際、死ぬよりも難しい。
 もし退屈を観察し、観察し、観察し続けると――、退屈はどんどん大きく強烈なり、あなたは息が詰まってほとんど死にそうになる。もう逃れるすべがないように思える。しかし何でも永久に続くものはない…」

 「なお退屈を見つめ続ければ、やがて爆発が起こる。退屈の強烈さがピークに達した時点で、大きな転換がやってくる。必ずやってくる。そのとき変容、覚醒、悟り――、何と呼んでもかまわないが、それが起こる。
 あなたは、自分自身の無の中を貫いていく。退屈はただの覆いに過ぎず、その中には『大いなる無』が詰まっている。
 そこで突然、退屈が消えて、悟りとサマーディが現れる。あなたは究極の無を見るのだ。つまり、あなたが消える。すると誰が退屈するのだろうか? 何に退屈するのだろうか? あなたはもう存在しない。あなたは消滅したのだ。人が退屈から逃げるのは、『自分自身の無』から逃げているのだ。
 そして、光とともに、歓喜が訪れる。まったく理由などないのに、喜びで一杯になる。限りない喜びが、そこにわき上がる」――


 暇で退屈な状態というのは、人生においてほとんど無価値で何でもないように思えてしまうものだ。
 ところがその向こうには、本当に信じられないような、とてつもない次元が広がっている、ということですね…。

 OSHOはさらに、こう続けて説く――

 「退屈は偉大な霊的現象だ。野生の牛は退屈することがない。完全に幸せで楽しんでいる。人間だけが退屈できる。
 退屈は作り出されなければならない。退屈がやって来るのを待つのではなく、自ら進んで退屈の中に入り、退屈を探求するのだ。
 ところがほとんどの人は退屈することなく、仕事をしたり、お金を稼いだり貯金をすることに喜びを感じている。レストランで食事をしたり、映画を見たり、旅行に行ったりしている。まったく退屈なんかしていないし、楽しんでいる。
 それはまだ人間ではないのだ。人は退屈を感じ始めたとき、初めて人間になる!」


 「退屈になって初めて人間になる」って、何ともすごい見方だなと思います…。

 でも、人間に「大きな脳」が備わっているのは、発達した知能で色んなものごとを生み出すためだろう。そしてその反動として「退屈」を経験し、そして最終的には退屈の奥にある根源的な真実を見いだす――
 つまり、ある意味で「退屈を可能にするために、わざわざ大きな脳がある」なんてふうにも言えるのかもしれない。
 かなり極端だけど、「意識の目覚め」が魂の目的であるならば、それもまた脳の重要機能のひとつであるはずでしょう。


 そして、その「退屈と向き合う」ことは――、不食に取り組んだり、無人島にまで行かなくても、普通の暮らしの中でも可能なことだといえる。

 でもまぁ、刺激にあふれた社会でそれをすることは、無人島以上に困難なチャレンジですけど…。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Paul Sills「Barefoot(Autumn)」。

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コメント
8144
光奈さん、こんにちは。

日常のすべては退屈しのぎ、という考え方もあるようです。
退屈という苦しみをすべての人はすでに自覚していると思います。
退屈は死ぬほどツライ。だから予定を入れる。何かをしないととダメだと思う。

やることがあるのは、本当に有難いことです。
それを実感してから、めんどうという言葉が私から消えました。
イヤイヤながらやることがなくなりました。
だから、食べることも有難いと思ってやっています。

さて、私はまた失くしものをしました。今度は遠近両用メガネ。
年初めの通帳類紛失騒動と状況が似ています。
必要もないのに持ってでかけた。落とすはずもないし、盗まれるはずもない。

ただ今回は大事なものではないです。
5月に新調したのですが、使い勝手が悪いのでほとんど使っていません。
このまま見つからなくてもまったく困らないです。
でも、メガネにかけた費用(レンズ代のみ)を損した気分あります(笑)。

光奈さんの失くしもの落し物、その後続いていますか。

8146
「退屈」に秘められたギフト
「不食」を妨げる最大の障害が「暇」だというのは面白いですね。

「暇」で思い出したのが、ドキュメンタリー映画『地球交響曲第一番』の出演者で元宇宙飛行士のラッセル・シュワイカートさんです。
(ご覧になっている方はご存じでしょうが・・・)
彼がアポロ9号のミッションで宇宙遊泳をしていた時、彼を撮影するため仲間の飛行士が持っていたカメラが突然故障して、それを直すまでの5分ほどを宇宙空間でひとりぼっちで過ごさなければならなくなりました。

突然することがなくなった彼の周りにあったのは、完全な静寂と真っ青な美しい地球──
無重力のため宇宙服の感触すらなく、自分はまるで素っ裸でたったひとり宇宙に浮いている・・・そう感じたとき、
「私という存在が、眼下に拡がる地球の全ての生命と深くつながっているというだけでなく、地球そのものと深くつながっているんだということが、頭ではなく心で理解できた」んだそうです。

5分とはいえ、宇宙空間での「暇」体験って・・・

それほど壮大な体験ではなくても、日常にふと訪れるエアポケットのような突然の「暇」時間ってありますよね。
そんな時間をやみくもに埋めようとするのではなく、それが導こうとしてくれているものに向き合って耳を澄ませば、「退屈」の向こうにある真実にふれることができるのかもしれませんね。

不食の本の著者の方々…ネットで見ました。確かに光奈さんのおっしゃる通り!
でも、冗談などではなく人の顔というのは、今生に影響のある前世の雰囲気を持っているそうですから、お三方の魂の源はそういうところにあるのかもですね。

8148
あおむし様

 こんにちは!

 いつまでも「やることがある」のは、有り難いことです。
 でも僕の場合、サラリーマン時代があまりに多忙すぎたためか、「やることがない」ときがいつも本当に有り難く感じられます。

 でも今月は、息子の学校のPTAの関係で、やることがてんこ盛りです。
 ブログの更新もいよいよピンチかと思っていたのですが、何とかできました…。

 そういえば最近は、なくし物をしないですね。
 あるいは、何かをなくしているかもしれないのだけど、ぜんぜん気づかないです…。
 所有の感覚が薄らいでいるのかもしれません。

8150
月子様

 こんにちは!

 宇宙空間での「暇」体験って、何とも深遠ですね。

 でもきっと、地球軌道上の宇宙空間を漂う宇宙飛行士も、こうして地上で過ごしている私たちも、宇宙の大きな観点からすればほとんど違いはないのでしょう。

 宇宙飛行士が体験した静寂と広がりは、ここでも感じられるのだろうと思います!

8151
光奈さん今晩は

そう言えば、仕事中は忙しくて休憩もそこそこに業務に追われることが
多いのですが、考えてみればその数分の休憩ですら時間を惜しんで
光奈さんのブログを見たりしています。(食事は職場ではとらないのでぼーっとする時間はそれなりにあるのです)
実はそういう時間が大切な瞬間なのですね。

今回の記事に思い当たる節があるので深く納得しました。
それは、ぼーっとしているときに訪れてくる、どことない罪悪感と言うか、背徳感と言うか・・・・
上手く言い表せませんが、動かなきゃとかこの時間を有意義に過ごさなきゃと思い、ぼーっと過ごすことへのうっすら感じるこの感覚は何なのだろうと思っていました。

そこを、今度はちゃんと向き合います。


8152
fujiwara様

 こんにちは!

 じっと何もしないでいるときのマインドの抵抗感は、本当に大きいですよね…。
 マインドのほうも存続のために必死なのでしょう。

 以下、チャネリング本の「ラムサ」の言葉です――

 「叡智を学ぶことに、罪悪感を持ってはいけない。それは『覚醒』と呼ばれる」

8153
初めまして( ´ ▽ ` )ノ
退屈って、不快な退屈と、幸せな退屈があると思うのですが、幸せな退屈を味わうと覚醒するっていうことでしょうか?
私は、中途半端に覚醒しているような気がします。プラーナだけ吸収して生きていけるという噂は聞いたことがありますが、私もそうなりたいです。
ただ、ポテチだけは、たまに食べたいという煩悩を捨てきれずにいますが…(;´Д`A

8154
光奈さん、こんばんは^^

つい最近、少々体調がおかしかったのもあったのですが、うっすらと『退屈だから、もういいや、寝てしまおう。』という意識もあり、必要な事以外は数日飽きるまで寝ていました(笑)

寝ているのにも飽きて、やらなきゃいけないことややりたい事もやっていますが、根底に『退屈から逃れたい』っていう意識は私の中に厳然とありますねー(笑)。

そんなこともあり、今回の記事も非常に興味深く拝見させていただきました。

また、前回コメントの返信で教えていただいた『偽腹』も同じく最近、もう身体は満腹しているはず(十分な量を食べて、お腹が苦しい感じがしたので。)なのに、『さらにもっと!』と『頭』で食べたい欲求がまぁ凄くて(笑)、さらに食べてしまうということがあったので、それも「あぁ!そうそう!」と膝を打ちました!

それからは、なるべく身体が『お腹すいたー』というまで、時間で食べないようにして、様子を見ています(笑)

いつも、興味深い記事をありがとうございます!

8155
モモ様

 こんにちは!

 確かに退屈には、幸せにくつろいでいるものと、不本意で不快に感じるものとがありますよね。
 例えば、「リゾート地でのんびり過ごしている」のが前者だろうし、「失業して家でやることがない」のは後者といえます。

 しかし、退屈そのもの、つまり「無為」であることそのものは、実はどちらも同質であるはずです。
 それに対してマインドが、「これは幸せ」「これは不快」と価値付けしているのだといえます。


 どちらの退屈を味わうほうが覚醒しやすい、ということはないだろうと思います。
 でも、どちらの状況に置かれたほうが「徹底的に退屈と向き合わざるを得ないか」というと――、不快な後者のケースが多いかもしれません。
 何とかしたくても、もはや万策尽きて、手の打ちようがないという場合もありますから。

 よく、意識の目覚めが起こりやすいのは「倒産・闘病・投獄」であると言われるのは、そういうことなのでしょう…。
 もちろん、進んでなりたいような状況ではありませんが、どのような退屈の中にもそれだけの可能性が秘められているといえます。

8156
真知子様

 こんにちは!

 「退屈から逃れたい」という気持ちは、本当に誰にでも強烈にあるものです…。

 「意識が覚醒している」と言う人が本物であるかどうか、外側から見て判断することはできないのですが、ひとつだけその検証方法があるともいわれます。
 それは――、完全に真っ暗闇の何もない部屋の中に、何十時間も1人でいること…。

 ふつうの人は精神的におかしくなってしまいますが、覚醒している人はサマーディの状態でくつろいでいられるといいます。


 ほとんど超人的なことですが、本当に退屈と向き合えるかどうかは、それくらい別格の違いがある、ということなのかもしれません。

 またその「退屈だ」という思いは、「偽腹」と同じく、頭の声なんですよね…。

8157
よく分からない・・・・
無人島ならともかく、日常で「食べる事とそれに関する事をやらない・考えないから暇になる」というのが「??」です。
数時間余るとしても、日常ではやる事はそれこそ沢山あります。「刺激的なエンターテインメント」も溢れている訳ですし、その数時間を埋めるものには事欠かないと思うのですが。
実際にやってみないと分からないのかな・・・。


宇宙飛行士が宇宙で神を感じたり、万物とのつながりを感じたりというのはよく聞きますね。
ラッセル・シュワイカートの場合、5分間左脳を休ませた事がその体験につながったのではと思います。
私は本で読みましたが、確か「もし作業をしていたらその経験は無かっただろう」みたいな事が書かれていた気がします。
宇宙飛行士は高度で複雑な作業をしている。船外でも普通は左脳をフル回転させて高度な作業に集中している。でもカメラの故障でそれをやめ、5分間、ただ宇宙空間を眺めていた。

「宇宙(というか、正確には地球外ですね)では神を感じやすい」とは言われますが、「やるべき事」にひたすら集中していたら、例え宇宙空間に一人漂っていたとしてもそんな体験は多分全くしないだろうと思います。


ジル・ボルト・テイラーではないですが、やはり左脳を休ませる事が鍵なんでしょうね。
個人的には「暇」「退屈」と思う(考える)のは左脳だと思いますが・・・・覚醒した人が真っ暗闇の中で一人くつろいでいられるのは、こうした左脳の働きが休んでいるからでしょうね。





8158
無人島での話の主題(テーマ)は退屈ということですが、
この時間をクリエイティブなことに使うという発想は無かったんでしょうかね?
一寸不思議です。

8159
Clary Sage様

 こんにちは!

 僕自身は、何となく分かる気がします…。おそらく不食に取り組むような人は、色んな余暇活動とか個人として「すること」を、既にできる限り手放しているケースが多いのではないかなと思います。

 また、何かをして「暇を埋める」こと自体が難しいというよりも、「無為」のままに在ることが本当に容易ではないのでしょう。

8160
feizyoa様

 こんにちは!

 「誰もいない、何も食べない、何もすべきことがない」といった未知の状況で、一体どんなことが起こるかを、この人は自分の身で実験したかったのではないでしょうかね…。

 クリエイティブな趣味はふつうの社会にいてもできますし、それと同じような「有意義で充実した生活を、無人島でやってみたい」という考えの人ではないのだろうと感じます。


 「無人島でクリエイティブなことをすれば、簡単に暇を埋められるし、退屈な思いをしなくて済むじゃないか」という着想自体、実は――、内なる空性と向き合いたくない、マインドのささやきなのかもしれないです…。

8161
光奈さん、こんばんは。

失くしものはないですか。・・・全然気づかない、いいですね。
私もそれに近いかも。気付いても、まあいいかの思いが上回ります。

この3日間用事があり毎日でかけていました。
予定通りに進まなかったことで、幸いしたことがいくつもありました。
すべてはうまく行っているんでしょうね。
たとえ、失くしものをしたとしても(笑)。

退屈を怖れなくなったと思っていますが、
この先の人生を退屈しない。そんな風にも思えます。

8162
あおむし様

 こんにちは!

 「やることがない」「面白いことがない」から退屈なわけではなくて、精神的に満たされていないから退屈なのでしょう。
 このへんは「空腹」の感覚とも似ているのかもしれないです。

 特に根拠もなく満たされている人は、先の人生でそれほど退屈することはないはずです。

8163
「人間になる」ということ
Koudaiさん、こんにちは。
今回の記事のように、無人島での生活やOSHOの言う「耐えがたい退屈」を体験するのは、
実際に社会の中で普通に生活しているほとんどの人にとっては、手の届かない世界の話ですよね。

でも、ここ約3か月ほど小食生活を体験してみて、
思いがけなくできた余分の「自由時間」がもたらしてくれた恩恵について考えてみると
「退屈になって初めて人間になる」というOSHOのことばの意味はなんとなくわかるようになりました。

人はみな、(特に勤勉な日本人は)昔からの周囲からの刷り込みで、
ヒマな(何もしない)時間を非生産的だと感じ それをいきなりポンと渡されても罪悪感を感じてしまい、
どう過ごしてしていいかわからなくなるんだと思います。
私の場合も、小食を始めてしばらくの間は、食事の支度に関する時間が大幅に減って「浮いた時間」をどうしていいか、戸惑いました。
「何か生産的なことをしないと・・・」って どうしても思っちゃうんです。

でも、だんだんその「時間はたっぷりとあるぜ」状態に馴染んでくると、
(罪悪感を感じなくなってくると)それがなんとも贅沢な 心のゆとりというか、
目の前のことに対処するすべての動作が ていねいになるというか、敏感になるというか、実感を伴うというか・・。
本来はそういう時間が必要だったんだ、ということを心のどこかで覚えていたのですね。

「食べなくてもいいし食べてもいい」「何かをしてもいいし何もしなくてもいい」
・・そういう状態に慣れてきて、しかも時間がたっぷりあると、人は自然に「どうせなら自分のしたいことをしよう」という気持ちになります。
そうです、「しなくちゃならないこと」が何もないとき、「したいこと」を決めるのは他ならぬ自分なのですものね。
そうすると、自分の心や気持ちとじっくり向き合って、自分がどんな性格でどんな嗜好を持った人間なのか、観察を始めます。
そして自分との対話が始まります。あなたは何をしたいの?どうしたいの?どう在りたいの?・・というように
時間をかけてとことん自分に付き合う(時間的、精神的)余裕ができるのです。

そして、思いついたことを実際に「行動する」とき、
それをしている自分の感情や身体の反応を 五感を使ってじっくり味わい、
それをまた客観的に観察します。それはつまり、「生きる」ってことかもしれません。

こう書くと、ちょっと抽象的になってしまうのですが、
具体的には、朝昼何も食べずにいて、夕飯を口にした時の、その美味しいことといったら!
ほんの少しずつ口に入れて、玄米や野菜の素材そのもののにおいを感じ、歯触りを感じ、
味を感じ、食道に入って胃袋に行くまでの感覚・・・ 
そういうのを存分に意識して、楽しんでいくと、少しの量でも満足して、すぐにおなかがいっぱいになるのです。

かつて、時間に追われて 何でもいいからとにかく食べ物をかきこんで、
口をもぐもぐさせながら、次にすべき行動の手順やあれこれを思いめぐらせていたあのころとは、
「食べる」という行為そのものの質が全然違います。
あのときは、本当の意味では「食べて」などいなかった。
そして時間があっというまに過ぎて行った。
だから記憶がほとんどないこともあった。
いつのまにそれをやったんだろう?なんて。

食事に関してだけではなく、普段の家事や仕事をするときも、
目の前に起こる、自分がしていることに注意が行き届き、
とにかくひとつひとつの「今、この瞬間」に対して、ていねいに向き合うコツがつかめたような気がします。

それがいわゆる、「人間になる」ってことなのかもしれません。
こころが伴わないでただ機械的に何かを右から左へとこなしていくだけなら、
ロボットがやっているのと変わりないですものね。

Koudaiさんのブログのタイトルにもある、「カルマ・ヨーガ」とは、
社会に普通に生活しながら、目の前に来たひとつひとつの出来事を体験しながら、
(心の平安という)悟りの境地に向かっていく一つの手法だと私は理解していますし、
ずっとそれを意識しながら実践してきたつもりでしたが、
ここにきて小食生活を体験して、さらにこの「実践の仕方」の理解が深まったような気がします。

自分で何も思いつかないときは、神さまに
「ヒマでしかたがないので神さま、何か私にすることのヒントを与えてください」とお願いしたりもしました(笑)
そうすると、神さまはちゃーんと、そのときの私にぴったりの「何か」を与えてくれるんです。
(ふと実家の父母の顔を見に行きたくなる、とか まだ行ったことのない近くの公園に主人がお散歩に誘ってくれる、とか)

そうして、ちゃんと自分のこころが YES と言うか確認して行こうと思ったら実際に行動します。
そうすると、母親がちょうど私にやってほしいことあったのよ~、と喜んでくれたり 
主人と美しい自然のなかでお散歩しながら これからの生き方などについてじっくり語り合えたり・・。

そういうことが続くと、ほんとうに、自分がいま、ここに存在していること、
今、何をしていて、何を感じているか、それをしっかり意識することがすなわち「生きている」ということ。
ひいては「人間であること」になるのかな、と思えてくるのです。

そこに(悟りに関する理解)に至る道は 人それぞれ違っているから、
ヒマラヤの山奥にこもって何年も瞑想をしなくても、仏陀のように長旅に出なくても
寺院に出家しなくても、そしてもちろん、不食を試みなくても 
それぞれに、それぞれの人生のシナリオに合ったアプローチの仕方があって
自分の内面としっかり向き合うきっかけができれば、それがなんとなく見えてきて、
(その流れを感じたら)素直にそれに従うことで 
必要な「悟り(平安のこころ)」が得られるんだろうな、とそういう気がしました^^

今回もついつい長文ごめんなさい。

8164
私の意見
 山田氏やOSHOが言ったりしたりしていることは、死んで霊界に行けば幾らでもやれることです。
それをわざわざこの世でやるのは根本的に間違っています。
世を惑わす妄言と一刀両断に斬り捨てて置きます。(唯我独尊で結構)

 オレンジャーがよく言っているように、我々は敢えて三次元の貴重な体験を求めて生れて来ているのです。心行くまでこの世のことを正しく楽しむのが神意に沿った生き方です。でないと、死んでから「あ、しまった! 間違った」と後悔することになるのではありませんか。

 じゅりあーのさんのコメント、良いですね。


8165
神様がこの世界を作ったのは、退屈だったから、というような説があった気がします? 完全無欠の退屈な世界で、ちょっと歯応えのあるゲームをしたくなったのだ、と。

だとすると、神様が完全無欠の素晴らしい退屈な世界に戻りたくなったら、この世界は終わるのでしょう。でもまだ終わってないのだから、まだ戻りたくないのでしょう。

神様に意思があるのなら、今は退屈よりもこの楽しいゲームを続けたいと、そう選択しているのではないかと思います。

8166
不食ならば、確かに働かなくてもいいということになりますね。その敵が暇とは、しかし、なるほどと思いました。食べるための時間やその努力をしなくていいとなると、本当にその時間何をしてすごそうかということになりますね。私は、本を読んだりして、そのまま眠りにつくという生活が今よりも楽しそうに思えてきました。

8167
こんにちわ^^
今の食生活を三割減らせば、三割寿命が延びる…と教えて貰った事があります。
確かに、医学的にも人間は一日2400カロリーも必要ないそうです。
自分は、やりたい事がたくさんあるので、三食を一食に出来たらいいなァとは思いますね^^

8169
じゅりあーの様

 こんにちは!

 素敵なコメントを本当に有難うございます。実際に取り組んで体感された方のコメントは、実に意味深くて、素晴らいですね。

 「在ること」と「すること」は両極的に言われることが多いですけど――、
 じゅりあーのさんのように、「してもしなくてもいい」という自由で中道的な位置から行動するのは、ある意味で「『在ること』から現れ出た『すること』」というふうに言えるのかもしれないです。
 「空即是色」みたいです。


 僕が大学生だったとき、ある修道士の方の講演を聞いたのですが、その人の座右の銘は何と「暇」だそうです。
 学生時代の僕は「暇なんて無価値でしょ!」と思ったのですが――、でも「暇」という漢字は、閉ざされていた扉が開いて、その隙間から暗い室内に光が差し込んでくる様子をかたどったもの、という説もあるそうです。

 またその人が修道院に入ったばかりのころ、食堂のテーブルにお皿をパッパッと素早く配膳していたら、年配の修道士から「あなたはお皿を並べるとき、愛をもってしていない」と指摘されたそうです。

 とにかく何でも手っ取り早く効率的に片付けようとしてしまうと、ものごとをする上での一番大切な意味を、見失ってしまうということですね。

 イエスは「たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい」と語っていますが――、それは人生にかかわる大きなものごとについてだけでなく、お皿を並べるとか日常の糧を味わうといった、ごく身近なことにも当てはまるのでしょう。

8170
666様

 こんにちは!

 まさに私たちは、この地上世界でしかできないあらゆることを経験するために、ここにいるのだと僕も考えています。

 でもたとえば――、この世の中での経験がまだかなり不十分な状態で、精神的にも不服だらけで、そしてうまくいかない現実から何とか逃れようとして、「無為」や「自分自身の無」を希求するのは、きっと違うだろうなと思います。


 ただ、僕自身がいま持っている感覚としては――、社会の表舞台で役割を担って長年活躍することも、経済的に満たされることも、家族をはじめとする周りとのさまざまな関係性も、ある程度は十分にやり遂げてきたというような実感があります…。

 たぶんこれは、過去生とかも含めた感覚なのかもしれません。激しい争いや、飢えの苦しみや、無力なみじめさなどについても、すでに過去生で存分に経験を重ねてきたのだろうと思っています。
 おそらく、こうしたブログを読むような人の中には、似たような感覚を持っている人が、少なからずいるのではと推察します。


 とは言え、そうしたこれまでのさまざまな経験というのは、「分離したエゴ意識と同一化した状態」のまま経験してきたことです。
 で、そうしたところから、ぜひさらに進んでいきたいのが、「自分自身の無」といった観点です。


 「分離した現実を経験しながら、一なる完全性を見いだす」――

 「一なる完全性を認識しながら、分離した現実を経験していく」――

 これもまた、「地上世界の中でしかできない貴重な経験」の中の、大きな一つであるはずでしょう。


 「自分自身の無」と言っても、無人島に永住するわけでもないですし、社会とかかわりを持たずに幽霊のように暮らしていくわけでもない。
 生きなくてはならない現実は、変わらずに続いていきます。

 でもその現実の世界を、これまでと同じように、エゴ意識にずっと巻き込まれながら経験し続けたら――、それこそ死んでから「あ、しまった!」と後悔することになるに違いないと思っています。

8171
ruri様

 こんにちは!

 まさしく、この世界は「リーラ(神の遊び)」ですね。


 僕はよく「神が自らにかけた魔法」なんてふうにも思っています。
 神の魔法だから、そう簡単には解くことはできない…。

 魔法にどっぷり浸かった状態で、魔法の世界を味わうのは、きっと「ゲームの前半部分」なのではないかと考えています。
 そして「ゲームの後半」は、神が自らの魔法を解きながら、もとの完全無欠性や空性へと戻っていくプロセスです。


 だから、この世界は「すぐに終わる」ことはないのでしょう。
 前半よりもはるかにすごい、後半の楽しみがまだまだ続いていくと思っています!

8172
丹後のきんちゃん様

 こんにちは!

 本を読みながら眠りに落ちていくのは、何とも心地いいですよね。
 僕もとても好きな感覚です。

 サラリーマン時代はずっと「ガッツリ食べて、満足するまで飲んでからでないと絶対に寝られない」という生活習慣でしたから…、本当にシンプル化したものです。

8173
sado jo様

 こんにちは!

 僕もかつてダイエットに励みましたが、食生活の3割減らしてみると、毎日の体調が格段に違ってきます。
 たくさん食べていた(さらに吸って飲んでいた)20代のころよりも、中年の今のほうがずっと調子が良くて、軽やかで動きやすいです。

 「1日1食」にしたら、すべての毎日に2時間ほどの空き時間ができるわけですから、それはかなり大きいでしょう。

8174
不食と、暇ですか・・・
今、最も関心の高い語群の2つですね。
なんか、創造的な時間をつくりたいです。
ありがとうございました。

8175
光奈さん、こんにちは。

2012年、自称ヒマ人となりました。明るい引きこもり。
外出して人にもほとんど会いませんでした。でも、楽しかったです。
ヒマにまかせて、遠くに散歩にでかけたり、人形服を作ったり。
本をたくさん読んだり。

そんな生活はとてもラクでしたが、
せっかくこの世に生きているので何かをやってみようという意識変化が。

現在はヒマ人は返上しましたが、基本はヒマ。自由時間がいっぱい。
やりたい時にやりたいことをやっています。

2013年から朝食抜きとなり、
じゅりあーのさんと同じように食べ物の美味しさを実感し、
食べる喜びを味わうことができました。

丁寧な生き方の一環として、ゆっくり行動するというのが私のモットーに。

2012年頃に、アセンションとは
この世にいながらあの世(神)の心境になることだなと理解しました。
でもこの世にいるんだから、この世を満喫する生き方をした方がいい。
その方が面白い。退屈でもない。思い切り生きてみよう。
自分を生かしてみようと、2013年から色々行動を開始しました。

今はヒマも、退屈も、多忙も、全部面白く感じられます。
ぼんやり、穏やかな日常でもこんなに楽しめるとは。びっくりです。

3日間眠り続けることが夢だった昔。
今ならそれも可能ですが、眠るのは夜だけでいいです(笑)。

8176
地球ならではの可能性
思った事を詰め込もうとしたらつい長文になってしまいました。

 光奈さんが以前触れていた通り、地球という環境は宇宙の他の場所と比べて特殊だと僕も思っています。まず、この世界には行動の選択肢がとても多いこと。僕は人間の持つエゴ(利己性)の構造は重力がかかった円錐系になっていると感じていて、普通人が日常的に行っている選択肢の内、実に何割かはこの中に入ってしまっているのではないかと感じます。といってもそれが間違いという考え方は正しくありません。地球は物質性の世界ですから、自分の命を守るためのエゴ機能は、ある段階までは必要なものだからです。だからエゴと時には歩み寄り、時には対峙しながら徐々に歩んでいく必要がある人間という在り方はよく出来ているなと感じます。

 数あるこの世の選択肢の中で何故何もしないことを経験するのかといえば、そういうことにチャレンジする人は生命としての更なる成長を指向しているからでしょうね。カルマヨーガが動の成長法だとすれば、座禅は(ほぼ一日中を何度も繰り返すようなレベルのものは特に)敢えて区分するなら静の成長法です。暇はエゴの構造の中でも頂点付近にあるもので、これと積極的に向き合うことは静の成長法の中でも究極的なものと言ってもいいのかもしれません。成長の段階として一つの佳境に入っています。エゴは一日に何度も、何百回も絶え間なく襲い掛かり、その抵抗も時が経つにつれて激しくなっていきます。エゴとの対峙法にもコツがあるようですが、この段階にまで至るとそれを駆使したとしても生半可な気持ちでは流されてしまうでしょう。一時も気が抜けない絶え間の無い行であることは、それをほんの少しだけ経験した自分にも1%くらいは分かります。この行を成し遂げた時には、おっしゃるように人間の意識は一段階突き抜けたものとなるのでしょうね。

 これだけ色々とある選択肢の中からエゴと向き合うという選択を選ぶことができるのも、地球の持つ雑多性によって外部から情報を仕入れられるからという点があるからで、それも面白いです。 この環境だからこそ得た知識もたくさんあります。 状況次第では一足飛びに成長することができるのもこの環境の重圧の成せる業と言えそうです。

 どの段階に属しているのかやこれまでに歩んできた過程はそれぞれ違いますが、世の中には(最終的には収束していくものの)たくさんの成長方法や観点があって、それを色んな人に教わり、時には持ち寄って一緒に学んでいく事ができるというのは素晴らしいです。光奈さんやコメント欄の皆様に感謝の日々です。

 生命はそれぞれ「経験」の課題と白紙のレポートを持って延々と(或いは永遠に)存在する(若しくは生じては消え続ける)世界に送り出された旅人なのかなと最近感じてます。幻想の世界で夢中になって遊ぶ無邪気な子供も、いつかは成長して自分の行動に向き合う時が必ずやってくるようにできています。その時自分のこれまでとこれからの行動に責任を持てば、最後には故郷へ帰ることができる時がくるのかもしれません。

 ここからは個人的なことです。
 僕は焦りすぎていたようです。未来を描くのはいいのですが、そっちに軸をおきすぎて現実との間の摩擦に苦しんでいたように思います。かと言って目標に向かって進むこともできずにいました。今は今という時を経験する段階なのかもしれません。

 木だけでなく森も見れる大局観を身に付け、もっと自分を解放して大切にしていく方向へ進もうと思います。いつも気づきをありがとうございます。


8177
Noelia様

 こんにちは。コメントを有難うございます!

 不食と暇が関心の高いワードというのは、いいですね。
 暇や無為から生み出されるものが、人にとって最も創造的なものなのかなとも思います!

8178
あおむし様

 こんにちは!

 いま息子の学校のPTA活動で、学園祭・運動会の真っただ中…。連日ここまであわただしくなるのは、かなり久しぶりです。

 サラリーマン時代とはまた質の違う忙しさですが、これもこれで、けっこう大変なものですね。
 今回の記事を書いておきながら、暇とはずいぶん正反対になってしまいました。


 でも、ふだんゆとりを持って過ごしているからこそ、動くときになってビシッと活動できるのでしょう。
 こうした波も、現実世界の「無常」の現れだなと思いますし、とても面白い経験です。

8179
masahiroGN様

 こんにちは!

 なるほどー。人のエゴの構造というのが円錐形で、その頂点付近に「静」や「暇」があるって、なかなか面白い見方だなと思います。
 確かに、色んな活動をさんざん続けてきたプロセスの佳境として、そういうのがあるのかもしれないです…。


 円錐形でちょっと連想したのですが――、
 宇宙の空間・時間と人間の関係を描き表した「宇宙図」というのがあって、これが円錐のような「水滴形」をしています。
 過去のブログ記事に、それについて書いたことがあります。
http://mitsunakoudai.blog.fc2.com/blog-entry-181.html

 果てしない宇宙の空間・時間の広がりのうち、人間が観測可能なのは、その「水滴形の表面部分」だけなのですよね…。
 ものすごくわずかな、狭い範囲でしかないです。


 きっと私たちのエゴ構造も、「あらゆる経験をするため」と言われるものの――、それによって経験できるのは、果てしない可能性の中のほんのごくわずかな一部分に過ぎないのだろうな、とも感じます。

8180
ひとりのアイランド
以前、西村浩太郎氏の「パンセ パスカルに倣いて(1)」という本をよんで、目からウロコでした。「無」を意識する。絶対の真理。パスカルの後半を読みたくない。一挙に信仰者の世界からしか物が見えなくなるように思えるから。
遠藤周作氏のような、キリスト教の「豊穣も有り」を未だ吟味できていない。
全ては、西洋人の精神構造が理解不能だから。人間が創った神など・・・・・・・・・・・・・・・。

8181
光奈さま
こんばんは。暇なときはどうやって暇つぶし
しようかと考えてしまいますね。
暇を超えるのは至難の業なのでしょうね。
下手も絵のうちで有名な画家の熊谷守一さんは
日頃猫と一緒に庭に寝転がって空を眺めていた
仙人のような方ですが、それでも雲のない空は
退屈でしょうがないといっておられたようです。
暇と刺激は表裏一体、暇から逃れるために眠るのは
必然のようですね。
いつも興味深い記事ありがとうございます。

追伸:
プラーナ食の方々、秋山さん、森さん、はせくらさんに
お会いしましたが、いずれも透明感あふれる方たちでした。情熱と行動力は人一倍あり、暇とはかけ離れている感じでした。仙人的暇とは違うのでしょうね。これも興味深いことですね。

8182
皇帝の亀様

 こんにちは! コメントを有難うございます。

 まったく知らない本でしたが、少し調べてみたらとても面白そうですね。

 断片的なオリジナルの記述を、つながりある形に再編成するって、僕自身もけっこう好きな作業でもあります。

 とても読んでみたい気がします!

8183
ひらた様

 こんにちは! 

 なるほど。熊谷守一の作品は、確かに猫と一緒にいつも寝転がっていないと描けないものですよね…。

 余計な要素はどんどんそぎ落とし、これ以上いけないところまで簡略化し、いわば「空」と「色」の中間のような画風だと感じます。

8184
こんにちは
食に割く時間減少、暇と直面。実は暇を恐れていたことへ気付く。これはまさにその通りと思います。実は大概の人々が、やんわりと恐れていることだと思います。健康を失うこと、貧困、事故、戦争などへの恐怖は誰もが認識しやすいですが、実は‟暇”もそうだと思います。覚醒への段階としてもおそらく直面することが多いかもしれません。なかなかクローズアップされにくいものですよね。 

 
ちなみに僕は一日一食で、たまに全く食べない日をポツポツ入れる感じです。一日一食ではありますがその一食の量はそこそこ多めです。 
そしてなにより莫大な時間が生まれます。笑

8185
光奈さん、こんにちは。
PTA関連のあれこれ、我が妹も大変そうです。
でも、妹にとっての良き経験良き思い出になるんでしょうね。

昨日、その妹の車で父の命日食事会へ行きました。
60才から1日1食、70才から不食になるんだと話したら
この人何を言っているんだの雰囲気が漂っていました(笑)。
一緒に聞いていた姪っ子たちも「考えられない」と。
「食べることもいいことだから、大いに楽しんだ方がいいよ」と私。

最近急に時間に対する意識が高まってきました。
食べることは続けますが、やっとテレビから離れそうです。
面白い番組もありますが、観なくても後悔はないでしょう。

情熱的に生きたい気持ちも高まってきました。
外側(モヤがかかってきたような)のあれこれも大切にしながら、
我が道を進みたいです。そこで起きてくることを受け入れます。

先週、絵てがみの恩師に「変人」と言われました。
(亡き父にも変人と言われていました、笑)
私にとっては最高のほめ言葉。自他ともに認める変人であれば
ますます自由な行動ができます。堂々と楽しく。

食事当番の今日、朝のうちに用意しちゃいました。
母と暮らすうちは、できるだけ規則正しい食事を心がけます。

8186
無題
 今は、食べるために労働をしなくても良い部分が沢山生れている時代だ。
そういう自由な時間が生れた時、これまでまっしぐらに生きて来た人は路頭(生き方)に迷う。
自分が生きている意味を見失ってしまうからだ。

 新しい時代にシフトしなければならない。
あなたは食べるために生れて来た存在ではない。
この時代を選んで肉体を持って生れているのだから、そこには大きな理由があるんだ。(私の註: どんなステージの魂でも同じ)

 あなたの命を使う価値のあることって何だろうか。
是非それを見つけてその生命を輝かせて欲しい。
             (宇宙人オレンジャーより)


シルバー・バーチ: 「(死んで)いちばん残念に思うことは、やるべきことをやらずに終ったことです。あなたもこちらヘお出でになれば分ります。
きちんと成し遂げたこと、やるべきだったのに怠ったこと、そうしたことが逐一分ります。
逃してしまったチャンスが幾つもあったことを知って後悔する訳です」(『古代霊は語る』p264)


8188
タカヒロ様

 こんにちは!

 暇という状況を大半の人が「やんわりと恐れている」というのは、まさにその通りだと思います。

 暇というものが、自分の「社会的有用性」とか「有意義な人生価値」の逆方向にあるように、ふつう思えてしまう。
 あるいは、人生のコントロール権や前向きな願望を放棄した「無力な存在」になってしまうようにも感じてしまう…

 でも要はそれは、分離したエゴ意識が、立脚できる基盤を失うことへの恐れなのでしょうね。

8189
おはようございます。いつもありがとうです。
バタバタしていまして、申し訳けございませんでした。

動画観ました!秋だな!と思いました^^一年はあっ!と言う間ですよね^^ランキングUPさせていただきました。

8190
あおむし様

 こんにちは!

 PTAは引き続き忙しいです…。
 この週末の体育祭を終えられれば、一段落です。

 でも、とても楽しい経験ですね。
 これくらいの歳になったら、人生の多くの部分が、だいたい同じようなパターンの繰り返しですけど、その中でPTA活動はとても異質で新鮮です(特に男性にとっては)。


 「不食」は、あまり周りの人との話題にしたり、宣言したりしないほうがいいかもしれません…。
 それほど一般性のあるテーマではないですし、まだ「幽霊やUFOを見た」という人のほうが普通に思われるくらいでしょう。

 テレビを見ない生活は、とてもいいですよ。

8191
666様

 こんにちは!

 似た内容のメッセージで、エリザベス・キューブラー・ロスのこの言葉もとても好きですね――

 「生きなさい。振り返って『命を無駄にした』と後悔しないように。
 生きなさい。してきたことを悔やみ、『別の生き方』を望むことがないように」

8193
ハチ&ポプラパパ様

 こんにちは!

 いつも応援を有難うございます。

 夏前半は「この猛暑は本当に過ぎ去るのだろうか?…」くらいに思えたのですが、ちゃんと涼しい秋が訪れるものですね!

8195
こんにちは。

『不食』『瞑想』ということに全く興味がなかったのですが、、家族の死、失職、ケガ、その他にもあり、動けなくなるような状況に追い込まれて、自分と向き合うしかない時期がありました。
あまり食べなかったし、たぶん『瞑想』に近い状態になっていたと思います。。

このときに内側で得たものは今までの人生を引っくり返すように感じるものでした。。

難しいことはわからないですが、何か強い力で無理やり修行させられているような。。

この時期を境に生きるのが楽に感じるような気がしています。

8199
ぼん様

 こんにちは!

 大変なご経験をなされているのですね…。

 そうした出来事は、世間的には不運・不幸と呼ばれるものかもしれません。
 でも魂のガイドはときに、どこにも逃れることのできない決定的な手段を使って、しかるべきタイミングにいる人を導くこともあります。

 きっとそうした、ガイドの働きがあってのことに違いないと思います。


 その時期をきっかけに、「生きるのが楽に感じる」とうのは、本当に素晴らしいことです!

8202
光奈さん、こんにちは。
明日の体育祭、雨が降らないといいですね。

大昔、週刊誌で水だけで生きている。それでも太った。
という女性の記事を読んでから、ずっと不食には興味がありました。
でもまさか自分が実践する気になるとは・・・。
数年前までは、健康のため朝食抜きは良くないと思っていましたし。

少食の母と朝食抜きが多い私との食生活は、
作り過ぎない、食べ過ぎないがモットーです。アトは自由。
昨日私が買ってきた豆大福を母は朝食後に食べていました。
それにつられて、私もシュークリームを半分食べてしまいました(笑)。

生きているうちに不食も体験してみたいですが、
今は周りの人たちとの食を楽しんでいます。当分続きそうです。

自室でのテレビ、なるべくつけないようにしています。
茶の間で母と一緒にテレビを見ることは続けます。

8204
根本的な疑問 
 広大さんは「根源=無=空=愛」(前半はOSHO)と考えているようですが、これは随分混乱した理解ではないでしょうか? 
空(神智学のコイロン)は原初のエーテルとも言うべきもので宇宙と言う「場」の究極の状態です。そこに神や人の「想念」が働くと、どの次元でも「形態」が現れるのです。
「空」+「想念」=「形態」=「色」というのが「空即是色」の正しい解釈です。 
つまり「空」は「根源」ではなく、「根源」が用いる素材に過ぎません。
「根源=創造神=大歓喜(愛を含む)」(日月神示)であり、大神=大歓喜=無と誤解させるような話は、とんでもない謬説だと思います。
宇宙の根源は無とは正反対です。それを無と説くのは魔道の教えではありませんか。無ではなく、「慈悲≒愛」が正しいと思います。


8205
あおむし様

 こんにちは!

 明日予定だった体育祭は、日曜日に順延になりました。
 明日は雨はやみそうなのですが、今の状況だとグラウンドのライン引きができないそうで、色々と都合があるものですね。

 延びたら延びたで、色々と手配が変わるので、面倒でもあります…。


 少食や、テレビを見ない生活は、意を決して臨むというより、「何となくそうなっていく」くらいがいいのかもしれないです。

8206
666様

 こんにちは!

 根本的なところまで突き詰めると――、
 唯一存在するのは「分割不能な普遍の意識」だけ。それ以外には、本当は何も存在していないのだと思います。

 その「意識」の存在についてうまく体系づけて説くために、教義によって色んな定義なり、理屈なり、分類なり、名称が使われているのでしょう。
 いずれにせよそれらは「希釈された真理」とも呼べます。


 どの定義・理屈・分類・名称こそが正しいということはないですし、異なる教義での言い方などを比較して白黒を付けようとする考えには、僕自身はあんまり興味がないです…。

8209
Re;
 審神(サニワ)が、国常さん(艮の金神)の正統な霊脈を継ぐ私の御役なのです。どうぞお気に為さらずにブログを続けて下さい。

「サニワの神はウシトラのコンジン様なり」(ひふみ神示 黄金の巻 第48帖)

8210
平凡はないですね
光奈さん、こんばんは。

そうですね。何となくが無理がなくていいですね。
私の場合、意を決してやったことでうまく行ったことはないかも。

食べる生活が続いても、テレビを見る生活が続いてもイヤではないです。
しかし、食にもテレビにも昔ほど楽しめない自分がいます。
楽しめないものからは自然に離れていきますよね。

結婚して家族を持つ人生は平凡だとかつまらないとかはウソでしたね。
光奈さんは、主夫にもなり、ますます人生を豊かにされていますね。

私がテレビや映画が楽しめなくなってきたのは、
現実の人生(なんてことない日常)が貴重であり面白いと思えるように
なったからだと思います。誰でも色々起きてきますしね。

明日の体育祭、楽しみですね。

8211
満月だぞ

8213
666様

 こんにちは!

 人それぞれに、守護神なり精霊なりガイドなりがいて、メッセージを伝えたり、必要なものごとに出合わせたりしているのだろうと思っています。

 ただ、その人にとっては貴い教えであっても、別の人からすれば、何もピンと来ないし役に立たないというケースは、むしろ少なくないくらいでしょう。

 そういうのもまた、この次元の性質のひとつなのだと考えています。

8214
あおむし様

 こんにちは!

 そう、楽しめないものからは、自然と離れていくものですよね。

 あと、それ自体に楽しみはいくらかあるけど、「無いほうがもっと楽しい」というケースもあります。

 タバコやアルコールなんて典型でした。結局は、やめることで失うものは何もなかったですけど…。


 あらためて考えてみると、「無いほうがもっと楽しい」ものって、身の回りにけっこう色々あるかもしれないです。

8215
すだれ満月様

 こんにちは!

 夜空が澄んで、満月は本当にきれいでした。

8225
久々にコメントします。

私も自然と何年かかけての1日一食~二食の生活になりました。
難しい事は私にはわかりませんが、このテーマは現代の象徴のように感じました…。

スピリチュアル的なことと無縁な今の暇をもて余す老人達、私達世代のスピリチュアルブーム、、、
結構奥が深いテーマなのかもしれませんね。

空にみえる無数の小さな光の粒、これがプラーナといわれるものなのかもです?
無音と闇の中で 自分を確立したい との欲求もいまだに変わらず異次元を感じ始めるも、バリバリ普通の生活で
美味しいもの食べたい♪

宇宙の摂理で人類は
どこかに向かって邁進してるんでしょうね…

久々コメントで、的を得ていない内容ですみませんでした。

8231
恵美子様

 お久しぶりです。コメントを有難うございます!

 1日1~2食の生活をなさっていて、きっと体調がいいのではないでしょうか。

 これから日本の経済社会はさらに成熟化していくし、高齢化も進むし、「暇」な時間は全体として増えていくだろうと思います。
 これもまた、私たちが大きな転換点にいるということなのでしょう。

9311
スチャダラパー / ヒマの過ごし方
日本語のHIPHOPで20年以上前に言及されてました。
http://www.youtube.com/watch?v=4lzDNyL83ro

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。





http://facebook.com/koudaimitsuna

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