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 「私」というのは、この肉体や人格を持った「個人としての存在」であるというのが、ふつうの疑いない日常感覚といえるでしょう。

 それに対し、禅やアドヴァイタ(非二元)、最近のスピリチュアルのメッセージでも、「そのような私というのは、そもそも存在しないのだ」ということがよく説かれる。


 でも、いくらそのような観点が強調されても、経験的な感覚とはどうしても相容れない…。
 ではこの、ずっと確固としてある、個人としての「私」の感覚というのは、いったい何なのか――

 それは、実は「周りからの情報の集まり」にすぎないという考え方が、脳科学や哲学の分野にもあります。


 たとえば(これは以前のブログでも紹介したことがあるけど)、脳科学では長年、脳の中に「意識」を生み出す脳細胞があるはずだと考えられ、研究が続けられてきた。
 ところがその脳細胞は、今も発見されていない。


 こうした中で近年特に注目されているのが、アメリカの神経学者クリストフ・コッホが唱える「統合情報理論」というものだ。

 コッホ氏は、「私たちの意識は、特定の細胞にあるわけではない」としている。
 そして、「意識とは、脳細胞が『複雑なつながり方』をして、ひとつに統合されたときに生まれるものだ」と説く。


 私たちの脳には、1,000億個以上もの神経細胞があって、それらの細胞は、非常に複雑なネットワークを形作っている。

 そのネットワークの中で、視覚や聴覚、熱さや痛みといったさまざまな「感覚」、喜びや怒りなどの「感情」、さらに過去の「記憶」や「思考」といった膨大な量の情報がやり取りされている。

 この複雑なつながりや情報が「ひとまとまりのもの」となったところに、おのずと「意識」が生まれる――、というのがこの理論の示すところだ。


 これは、なかなか面白いことだなと思う。
 つまり、私たちの「意識」というのは、生体や物質などのいわゆる「実体」の中に存在しているわけではない、ということになる。

 たくさんの神経細胞がつながった、膨大で多様な情報がやり取りされるネットワーク――、そのようないわば「目に見えない場」のようなところに「私」という感覚が発生しているのだといえる…。


 同じような考え方は、まったく別の分野にもある――、
 18世紀イギリスの哲学者ヒュームは、「私とは、知覚の束にすぎない」と主張する。


 ふつう誰もが、「私」というものがまず存在していて、その私が視覚や聴覚、熱さや痛みといった「知覚」を受け取っているものだと、当然のことながら考えている。

 ところがヒュームは、それとは逆に、最初に「知覚」のほうが先にあるのだという。

 その色んな知覚が、周りから絶え間なくものすごいスピードで次々にやって来ることによって――、
 それらを感じている「固定的な存在」がここにあるのだというふうにとらえ、そこから「私」という観念が生み出されるのだ、と説いている。


 「私とは何か」は、言うまでもなく哲学のメインテーマである。
 その「私」というのは、次々に生じては消える知覚や記憶を集めて作り上げられた想像上のものにすぎないというのが、ヒュームの考え方だ。

 前述の神経学者のコッホ氏とは、分野も時代も違うけれど――、
 周囲からの情報が集まって、実体のないところに「私」という感覚が生じるという点では、けっこう似ているところがあるなと思います。


 こうした考え方から、あらためてスピリチュアルなテーマについてとらえてみると――、

 「個人としての私」の存在は、感覚としては本当に誰にとっても疑いなく鮮明ではあるのだけれど、でも、その理屈としての裏付けは、実感ほどは確かなものではないともいえる。

 この世界は大きな「全体」だけが存在し、それが常に変化し続けていて――、その中で、単なる情報や知覚の束が、「個人としての私」というものを生じて感じさせている…。


 「だから生き方をこう変える」というものでもないですけどね。
 でも、こうした真実を前提としながら、現実的な日常にきっちり取り組むことによって――、新しい世界観や向き合い方の中から、何かの気付きや変化が起こっていく可能性もあるのかなと思っています。



 結びのヒーリングミュージックは、Steven Halpern「Relaxation Suite」。
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コメント
8463
記事内容とはちょっと違いますが
時々思うのが、私の体というのは私のはずだが、私は私の体についてほぼ何も知らないし何もしていないという事ですね。

体を動かしたり、何を食べるかを決めたり、というのはやってますが、99.9999・・・%、いわゆる私は何もしてないし、知りません。心臓を動かす・腎臓を動かす・肝臓を動かす・・・といった事もそうですし、細胞レベルの何百億・何千億という複雑な働きについて「私」は全く意識してやってない。成長も私が意図してやっているわけではない。

どういう事だろう?と思う事はありますね。
「私の体」と言いつつ、所謂「私」が知っている事ややっている事がごく僅かというのは。一体、休む事無く60兆の細胞を動かし、何千億・何兆という複雑なプロセスを行っているのはどういう力なのかと。

PCにも似ていますね。非常に複雑だけど、何も知らなくても動かす事は出来る。
でも、自分の体は一応「自分」という事になっているだけに余計に妙な感じがします。


8465
Clary Sage様

 こんにちは!

 その通りで、「私は血液を循環させている」とか「私は消化活動をしている」とは言わないですよね。

 また「私は呼吸している」も、言葉としては違和感がないものの、実際は血液循環と同様に、自分の意図なしに自然に行われていることが大部分です。

 さらによく言われることとして、実は「思考」も、自分の意図として行われているわけではない、ということです…。
 次の瞬間に頭の中にどんな思考が浮かんでくるかは、当人にも実際はほとんど分からないですしね。

 それでも、「体」も「思考」も、それが自分であるという感覚はあります。

8470
今晩は。

意識や知覚は実に不明瞭だと思います。例えば夢の中でそれは夢なのか現実なのかを意識や知覚は区別できません。ゆえにこの世はあるようで実はないものかもしれないという究極に至るわけですけど。

個人的には五感も実に不明瞭です。科学が五感という不明瞭な基準の中での整合性を求めているだけとみるならば実に愉快な笑い話ですし、私はそう思っています。

もし意識がつながりや情報から生じるならば、モノや石でさえも意識があるといえるでしょう。私はそう思っていますが。w

意識のありかはいわゆる魂でしょうか?しかし、個と認識しているだけで実は集合体であってもおかしくないですし、意識自体がただの夢や幻であってもおかしくはありません。

また極論になってしまいました。w

面白いですね。

8471
Clary Sageさんへ

 「一体、休む事無く60兆の細胞を動かし、何千億・何兆という複雑なプロセスを行っているのはどういう力なのか」

 プラーナですよ。

 人が亡くなると、先ず霊が抜けて肉体が残ります。次いで肉体からプラーナが抜けて死体になります。死体はバラバラになって原子、分子に戻ります。
全ては創造神のエネルギーが、進化のために行なっている営みなのです。



8472
>ふつう誰もが、「私」というものがまず存在していて、その私が視覚や聴覚、熱さや痛みといった「知覚」を受け取っているものだと、当然のことながら考えている。

この上記でいう「私」を本当の自分やと「束」が思い込んだ瞬間から、いろいろと厄介な事になるんですよね。現象世界(この世)の中で。

新興宗教なんかでもよくある教義で
「本当の自分とは肉体でなく魂である。」
「魂は永遠であり、輪廻を通して魂を磨いて永遠に向上していく。」
「それが本当の人の道である。」
と言う考え方がまさにその「私」にこだわり、一見聞こえは良いが実は執着を呼び起こしてしまうものかと思います。

巷の宗教はこんなのが多いかと思います。
別にその宗教を否定するものでもないのですが、やってて苦しくなってくるんじゃないかと思います。

自分は、一時そんなのに影響された時期があったもんで。
ただ良質なネット情報等で気づかされて離れました。
感謝しております。


8473
このテーマ、難問中の難問でしょうね
ざっと20年、
『私とはなにか』を意識し続けてきました。
突き詰めていくと脳がエンストしますので、
最近は棚に上げて暮らしています。

過去の体験では、『私は意識』でした。
肉体がなく、意識の目のようなもので、
360°の世界を観ていました。
私という個であり、同時に全体で……。
全てのものに浸透、拡散した意識でした。

人体については、細胞のひとつ、ひとつに
意識があると思っています。
脳は統括臓器に過ぎないので、
そこで思考を繰り返しても、
このテーマに対する答は、
得られないだろうと思っているわけです。

それでも、たまには、意識について意識します。
固定観念に縛られないための気分転換みたいなもので……。

鉄や石にも意識があること。
人の目では計り知れないことですが、
鉄や石が四六時中、その存在を維持するための
営みを繰り返していると認識するために。

では、意識とは何か?
BS2のコズミックフロントが面白いです。
何もないと思われていた宇宙のスペースに、
ダークマター…云々。
私は勝手に『意識の海?』などと想像して
にんまり……(((o(^。^")o)))

8474
光奈さん、こんにちは。

>現実的な日常にきっちり取り組むことによって――、
>新しい世界観や向き合い方の中から、
>何かの気付きや変化が起こっていく可能性もあるのかな

色々なことが起きてきて、自分と思われるものと向き合うことになります。

自分と自分以外は一体であるという視点で取り組んでいくと、
互いに何かを与え与えられるための出来事、感情なのだと思うように。

私は正直でいることしかできない。だから、正直に伝えました。
伝わらなくても、私の言動が何かを変えていくでしょう。
一番は自分自身を変えることになるのでしょう。

それにしても、何でもやってみないとわからないですね。
教えるというのは本当に疲れます。講師の皆さんの苦労を実感しました。

すべてのことを喜びと感じられる私になるため、今色々起きているのかな。
さて、この思考はどこから来るのでしょうか。

8475
666さん
きっとそうなんでしょうね。

「鉄や石にも意識がある」といった事は、左脳(?)では受け入れられなくても、感覚的には何となく分かってるのかもしれません。
誰かが、所謂”物”に対して「このポンコツ!」とか悪口を言っていると、ヒヤッとします。「(相手は)聞いているのになあ」というか。
自分が住んでいる家に対して、狭いだのボロいだの悪口を言う人もいますが、そういう悪口って家は聞いているような気もします。

「自分が世話になっている物の悪口は言わない方がいい(出来れば感謝する」)という感覚はありますね。まあ、左脳的思考からしたら「何じゃそりゃ」なんですが。

8476
脳だけでなく
最近の研究で、「腸」のコンディションが、「気分」と相関関係があるというような説があったように思います。たぶん指先でも、太腿骨でも、なにがしか「意識の形成」に関与していると私は考えております。

8477
ひまわり様

 こんにちは!

 不思議ですね。夢を見ているときに夢だと分からないのと同じように、この現実の自分には「実体がない」ということが分からない…

 きっと、あえてそれが不鮮明になるように作られているのでしょうね。

8478
富士山はきれいだ様

 こんにちは!

 「私」という言葉も、まったく異なる意味で使われていますよね。

 最近よく言われるノン・デュアリティの「私はいない」の場合、その「私」は「分離した個人」のことを指している。
 一方で、マハラジをはじめ覚者が言う「私は在る(I AM THAT)」の「私」は、「真我」を指している。

 最も肝要な単語レベルでこうなわけですから…。


 ネット情報は本当に千差万別に雑多だけど、本当に良質なものがありますよね。
 僕自身も、ネット情報で大切なことを気付かされたり、貴重な出会いに導かれたりもしました!

8479
風子様

 こんにちは!

 とても素晴らしい体験をなされているのですね。

 思考を繰り返しても答えが見いだせないというのは、本当にその通りに思います。

 脳神経外科医のエベン・アレグザンダーは、自らの臨死体験を記した著書「プルーフ・オブ・ヘブン」の中で、以下のように語っています。世界的な脳の専門家がそう言うのは、なかなか面白いですね――


 「脳は、非物質世界における非身体的な意識を、減圧弁またはフィルターとして、この世界にいる我々に許容できる範囲に制限する働きをしていると考えるのである。
 この世界から見れば、そこにはっきりとした利点がある。周囲からなだれ込んでくる知覚情報をろ過し、生存に必要なものを選り分けてくれるお陰で、超越した自分の本質を忘れた状態で、いまこの場所に効率的に集中することができるのだ。
 俗世界を超える領域を過剰に意識することは、人類の歩みをいっそう遅くさせる。世俗世界を超越した世界は認識すべきでないと言うつもりはない。ただその広大さや深さを過剰に意識することは、この世界を生きる間の営みに支障をもたらしかねないという意味だ」

8480
あおむし様

 こんにちは!

 「自分と自分以外は一体である」という視点は、素晴らしいですね。

 感じるべき感情がここに起こるために、自分以外の色んなものが動いて作用している。
 この世界のすべてが、全体が一体となったいとなみなのでしょう。

8481
ごんのすけ様

 コメントを有難うございます!

 体の各部を整えると、気分もいいというのは、ヨガをやっているとよく実感しますね。

 情報や知覚の束が「私」であるからには、知覚に関わる体の各部が、「私」に色んな影響をもたらしているに違いないでしょう。

8482
意識って本当にどこにあるんでしょうね。いくら体を解剖してもどこにも見つからないんですから。過去の思い出もどこにしまってあるんでしょうね。目に見える実態の世界と時間という目に見えない世界の軸が絡まっているところにあるように思います。

8483
丹後のきんちゃん様

 こんにちは!

 過去の記憶がどこかにしまってあるのと同様に、未来の行動もある程度決まっているならば、その情報もどこかにしまってあるということになります。
 何とも不思議です…。

 本当にその源は、よく言われる「どこでもないところ(Nowhere)」であり「今ここ(Now here)」なのでしょうね。

8484
意識は霊の働き
 私という意識の本体は霊であって「脳細胞のネットワーク」などではありません。その証拠に、肉体は死んでも自分という意識は無くならず、そのまま霊に引継がれて所属する類魂に吸収され、更に、より大きな類魂の集り(インディビジュアリティ)全体に共有されます。「個=全」というちょっと理解し難い関係です。
類魂について知りたい方は「類魂 一厘の仕組」で検索してみて下さい。シルバー・バーチとフレデリック・マイヤースの説明を簡潔に纏めてあります。
 「情報の束」という見方は意識の構成要素として幾分かは当て嵌ります。しかし、それは意識の隠れた巨大な本体(潜在意識)から見ると、末端の極些少な部分でしかありません。

〔参考〕
1.「意識は力であると同時に、質料、形態であり、また同時に生命である唯一者の最高の表現である」(神智学 10.28「逆ラマナ」にコメント)


2.〔青年牧師とシルバー・バーチの対話〕

牧師: 「死後の世界でも互いに認識し合えるのでしょうか」
シルバー・バーチ: 「地上ではどうやって認識し合いますか」
牧師: 「目です。目で見ます」
シルバー・バーチ: 「目玉さえあれば見えますか。結局は霊で見ているのではありませんか」
牧師: 「その通りです。私の精神で見ています。それは霊の一部だと思います」
シルバー・バーチ: 「私も霊の力で見ています。私にはあなたの霊も見えるし肉体も見えます。しかし肉体は影に過ぎません。光源は霊です」


8485
私とはこの体で
他の「物質」は私ではない、と普通は思っています。

でも、その意味では「異物」であるはずの、空気や、水や、お茶の抽出物や、米、、小麦、にんじん、オリーブオイル・・・等々を日々摂って、自分と同化させているというのは考えてみると不思議な事かもしれないです。
「私でないもの(と思っているもの)」が私になる(?)訳で。本当にそれは私ではないのか?(まあ、プラスチックやガラスや鉱物は食べられませんし、飲めないものや吸えないものも山ほどありますけど)

太陽光などもそうですが、「私ではないもの」と見なしている多くのものが必要なんですよね。

ちょっと話は違いますが、人間の苦しみというのは突き詰めれば「分離」「孤独」という事かなあと思う事があります。
神、全体性、人間関係、コミュニティ・・といったものから切り離されていて、自分は孤独であるという感覚。逆に言うと、分離の感覚がないのに大きな苦しみを持つ事はまずあり得ない気がします。
多くの人が親密な人間関係を持ちたがるのも、或いは親密な人間関係がない事に苦しむのも、基本的にはそれが理由でしょう。「自分が孤独でない事を感じたい(のに出来ない)」という。

「切り離された・孤独な感覚」というのはどこから来るのかと言えば、やはり「自分とはこの体だ(他はすべて他者であり、異物だ)」という考えからかな・・。

「せんじつめれば、最高の教師とは心を開いて生きる事です」という言葉がありますが、私もきっとそうなのだろうと思っています。
この場合の心を開くというのは、人間にだけ、とか、特定の何人かの人間にだけとかいう事ではなく、すべてに、という事でしょうね。

8487
666様

 こんにちは!

 確かにその点が、クリストフ・コッホ氏の「人の意識=脳神経ネットワーク」という説と、スピリチュアルの相容れないところといえます。

 人が死ぬときには、意識を生み出している脳のつながりも機能停止するので、「死とともに意識はいっさい消えてなくなってしまう」というのがコッホ氏の考えです。
 もちろん神経学者としては、当然の見解でしょう。


 過去のブログ記事でこれについて紹介したときには、僕自身の推論も含めながら――、その「脳神経ネットワーク」から、「人類の集合意識のネットワーク」、さらには「宇宙全体のネットワーク」というところまで話を広げてみました。

http://mitsunakoudai.blog.fc2.com/blog-entry-396.html


 この過去記事では、書いてある通り、「人の死後、脳に位置していた私たちの『意識』は、壮大な『宇宙意識』の全体へと取り込まれていって、それと一つになる」――という見方をしています。

 僕自身の考えとしてはそのような感じなのですが、今回の記事では、「個人としての私」という存在が「いかに実体のないもであるか」ということに重点を置きたかったので、あまり話を広げないようにしました。

8488
Clary Sage様

 こんにちは!

 個の「私」としての分離の感覚が、そもそもの「苦しみ」であるというのは、まさにその通りだと思います。

 「『私』は苦しみから逃れることはできない。なぜなら、『私』そのものが苦しみだからだ」と断言している人もいます。

8490
Clary Sage さん  

 スピ的には「人は多くのものに生されている」ということです。だから感謝して生きなさい、という話になります。

 苦しみの原因はもっと端的に一語で表現出来ます。「エゴ」です。
エゴが人を苦しめ、カルマの返報で自分も苦しみます。
この苦しみと、「この世はハードトレーニングセンター」に由来する苦しみとは区別するべきです。これは「苦を楽しむ」ことが可能です。
故に、広大さんが引用している、「『私』は苦しみから逃れることは出来ない。何故なら、『私』そのものが苦しみだからだ」に私は同意しません。
日月の訓えによって、私はこの世を「うれしうれし」で生きる「神の道」があることを知っているからです。決して楽な道ではありませんが。
  

8491
存在するのは意識とコイロンだけである
光奈広大さん

 意識はネットワークとは関係ありません。(ネットワークが無ければ存在しないというものではない)
宇宙神が始めから巨大な意識そのものであり、その分霊が数多の銀河団の司神⇒一つひとつの銀河の司神⇒数千億(幅がある)の恒星系の一つひとつの司神⇒人間一人ひとりのモナド(分神霊)へと受継がれています。
故に、我々の意識もその大きさや偉大さや崇高さやその他あらゆる面で大海と一滴の水ほどの違いはあっても、宇宙神と本質は同じなのです。 

〔神智学〕より
 「原初、太陽と惑星群とが未来に於いて生ずべき宇宙空間の、この茫漠たる圏内には、今日の太陽系内にある可視及び不可視の質料の類いのものは何もなかった。
あるのは唯、コイロン(原初のエーテル。質料の否定。原意は「空」)のみであった。
 
 このコイロンの中に宇宙神はご自分のエネルギーを注ぎ、コイロンの中の無数の点でコイロンを奥へ押しやったのである。
従ってコイロンの無い所に各「泡」即ち光の点が存在する。故に実際は一つひとつの泡は宇宙神の第三側面の意識の一点である。(これが太陽系全界層の質料の素となる九次元アーディ質料である)
 一つひとつの泡は包み込もうとするコイロンを宇宙神が後に押付けている間だけ存続する。(宇宙神の「意志力=意識」が無になった瞬間、全宇宙が消滅する)

 このコイロンと「泡」(光の点)だけの世界に太陽神が現れ、始めに「神の心の世界」の中で未来の太陽系となる原型を創造し、その他あらゆる原型を創造し、その進化の行程を定め給うた。
次には、その経綸を宇宙空間の中で運行するために、ご自分の第三側面即ち「力ー質料」としての御働きを始められた。 
宇宙神が御創りになったアーディ質料(コイロン内の泡)を素材に、今度は太陽神の第三側面が各界層の質料を形成し、次いで第二側面「生命ー形態」と第一側面「神性ー人」が御働きになり各界層を創造して行ったのである。(即ち、アーディ⇒アヌパーダカ⇒アートマー⇒ブッディ⇒メンタル⇒アストラル⇒物質、の七界層である)」

 その全容は太陽系一つを取って見ても、言葉を失うほど、壮大且つ荘厳極まりないものである。この大経綸は太陽神御自身の進化のためであり、窮極的には宇宙神御自身の進化のためでもある。 
我々は言わば、宇宙神の分身としてその進化に寄与する立場にある。
この「永遠の進化」という概念こそ、「無」の対極にあるものであり、正統的なスピリチュアリズムの根幹を為す。

 

8496
666様

 こんにちは!

 意識というものが「宇宙全体」から「私たち一人ひとり」へのいくつかの階層になっていること、それらは同じ本質であること、そして人々の学びや経験が宇宙全体の進化につながることなど――、
 僕の考えも、666さんが言われている内容に、基本要素としては近いものがあるように思うのですが…


 「ネットワーク」というのは、そのブログ記事の話題の流れの中で、全体像に当てはめて説明するための言い方(方便)です。
 その崇高さや創造的意図を示すときは「神」という言い方をしますし、場合によってはそれが「意識」とか「御霊」とか「フォーカス・レベル」とかでもいいと思います。僕としては特定の体系にあまりこだわらないです。

8506
666さん
「多くのものに生かされている」というのはよく言われますが、私を含め殆どの人が普段全く考えないですね。空気が無ければ数分で死ぬというのにね。
それだけ、エゴや、思考にばかり集中しているという事なんだろうなとは思います。
「あいつは全く何だかんだ」なんて考える事に思考エネルギーを使って腹を立てているより、或いは、恐れたり、後悔したりしたりするよりもっとましな意識の使い方はいくらでもあるのに、否定的な思考に集中して気分を悪くしているというのは、自分のためにも周囲(全体)のためにもならないですね。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。





http://facebook.com/koudaimitsuna

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