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 「私はいない、ここには誰もいない」「この世界は、たったひとつのエネルギーが形を変えながら現れているだけ」「すべては完璧に起こっている」――
 昨年あたりから、スピリチュアルの分野では「非二元(ノン・デュアリティー)」のメッセージが広まってきています。

 明確な定義とかは詳しくないけれど、内容としては古くから説かれている「不二一元論(アドヴァイタ)」とだいたい同じように思うし、まったく真新しいメッセージというわけでは必ずしもないでしょう。


 でも、従来の状況とずいぶん異なるように感じるのは――、
 これまで、アドヴァイタなどの教えに関心を持つ人というのは、いわゆる「現実世界の幸せの追求」をある程度卒業して、禅やインドのマスターなど色々な教えに出会っていって、その学びの上にあって初めて理解を深めていく、という手順だっただろうと思う。

 ある意味で、かなり対象の限られたメッセージと言っていいだろう。

 一方で最近はというと、スピリチュアル分野に関心を持つ相当に広範な層に向けて非二元のメッセージが伝えられていることが、これまでにない特色のようにも思う。


 最初のうちは僕も、「説明も抜きにそんな根源的なことだけをきっぱりと言い切られても、聞くほうはただ『……』と黙ってしまうしかないだろう」と、やや無意味な形のメッセージのようにも思っていたのだけれど――、
 でも、そうしたネット動画などを見ながら、ただ「……」と黙ってしまうしかないこと自体が、全くつかみどころのない場に放り出されたみたいな、つかまなくてもいい余計な理解への努力を強制的に放棄させられているみたいな、大切な瞬間に引き込まれているような不思議な感じがしてくる…。

 おそらく、色んな人がそのように感じているのかもしれないし、比較的幅広い人がこのテーマに関心を寄せてメッセージを受け取っていること自体、数年前では起こり得なかった状況ではないかなとも思います。


 これはきっと、一時的な傾向ではなくて、ゆで卵が生卵に戻らないような「不可逆的」なことなのでしょう。
 「成功法則や引き寄せ」から「非二元」という順序はあっても、「非二元」から「成功法則や引き寄せ」という進み方はまずないだろうから。


 もちろん、非二元のメッセージに対しては、賛否両論がかなりある状況ですよね…。

 中でも、「重い病気の人や、親しい人を亡くした人に面と向かって、『苦しんでいる人なんかどこにもいないし、すべては完璧だ』なんて口にできるのか」といった意見はよく目にする。
 「こんな考え方には愛がない」と言う人もいる。


 もちろんこれは変な言い掛かりではなく、論理の筋としては確かにその通りでしょう…。
 でも実際の例として、「無我」の境地にある覚者などが、困っている人に対して愛や共感のない振る舞いをするのかというと――、逆にそうではなく、思いやりある行動をとるケースがやはり多いのではないだろうか。

 たとえば道元は、心身脱落して真の無我になりきっていながらも、村の女性が幼い子供を亡くしたときに、心から憐れんでなぐさめた。
 中世イタリアの聖者・フランチェスコは、この世界が神の愛ですでに満たされていることを悟ったあとに、病人や貧しい人々への奉仕活動を始めている。

 ベトナムの禅僧ティック・ナット・ハンも、ベトナム戦争中に激しい戦禍をくぐりながら、平和を訴え続けた。


 これらは、かなり象徴的すぎる偉人の例かもしれないけれど…
 でも「無我」であるからといって、他者に共感しないわけではない、見えない原則を説くだけで何もしないわけではない、ということは明らかでしょう。

 おそらく、「私はいない、すべては完璧」と語っているメッセンジャーだって、いざ目の前に困っている人が現れたら、とっさに手を差し伸べたり、共感の言葉を口にするに違いないと思う。

 もちろんその人が、社会常識としてそうするわけでもなく、また非二元のあり方と矛盾するわけでもなく――、
 まさしく、ひとつのエネルギーの現れとして、そこに「救い」や「憐れみ」が自然に起こってくるのではないかな…。


 『仏教思想のゼロポイント』(魚川祐司著)という本を読んだのだけど――、これはよくある仏教入門書とはかなり違う、仏教のそもそもの核心部分をとても分かりやすく論理構成した、驚くべき一冊だった。

 で、その本の一部にも、「無我のあり方から世界を見つめる」ことと、そこに湧き起こる「ストーリーの世界に介入する」ことの矛盾が、仏教におけるかなり根本的な難問である点が、次のように触れられている。

 「物語の世界」に積極的に介入していく「利他の実践(慈悲)」と、そのような「世界」を縁起の法則に従って継起するだけの中立的な現象として観ずる「捨の態度(智慧)」という二者の乖離は、仏教について真剣に“考える”者が必ず当面することになる難問題である。
 この両者が、同一人の中に併存することは、どうも筋が通らないように思えるからだ。

 ただブッダの中ではそれは併存していたと思われる。
 また後代の仏教徒たちも、程度の差はあれ、そうしようと努めてきたことを考えると――、やはり「智慧」と「慈悲」は現実的には両立可能だし、また仏教徒の建前からすれば、この両者は相互補完的なものでもなければならないということになる。


 まさにそれは、話の筋としては矛盾するようでいて、現実のあり方においては両立するものなのでしょう。

 この世界は、ただ現れているだけ。
 瞬一瞬が完璧だけれども、すべてが中立的で意味はない。

 でも、それにもかかわらず――、
 「共感」や「救い」も自然に現れてくることが、この世界の大きな神秘でもあるなと思いますね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、The Echelon Effect「Tracking Aeroplanes」。
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コメント
9147
こんばんは

“ただ「……」と黙ってしまうしかないこと自体が、全くつかみどころのない場に放り出されたみたいな、つかまなくてもいい余計な理解への努力を強制的に放棄させられているみたいな、大切な瞬間に引き込まれているような不思議な感じがしてくる…。”

年明け早々に参加した講演会で私が経験したのは、まさにこんな表現がぴったりの感覚でした。
(勿論、光奈さんの書かれている真意と私のそれとが必ずしも一致しているわけではありませんが)

でも今ひとつ摑めなくていつかわかったら面白いだろうな〜とワクワクしているメッセージはまさしくその「私はいない、すべてはひとつでそこに分離はない」ということ。

死ぬ方法を真剣に探していた頃から、はや二年。
光奈さんにドキドキしながら初めてコメントを送らせて頂いたのが丁度一年前。(時間はない、単なるストーリー!笑)
大和田さんのメッセージに出会って「あぁ!自分にコントロール出来ることなんてないんだー思考さえも!?よかったぁ!」と心底笑ってしまったのですが・・
「自分はいない」が今ひとつ摑めずニヤニヤしています。


「じゅんころさん」から「溝口さん」というイギリス在住の方を知りメッセージもYouTubeで拝見しました。
彼女が一瞥体験をしたときにたまたま近くにあった椅子を目にして
「あ!椅子は一度も『私は椅子』と言っていなかった!」とわかったとおっしゃっていて・・・

う〜ん、靴の裏から足を掻いている様な!答えがすぐ隣にあるような!


9148
fijiwara様

 こんにちは!

 僕はまだ講演会には行ったことがないのですが、ネットの動画サイトをただじーっと聴いているだけでも、妙に引き込まれていきますよね。
 知的に理解すべき情報性はほとんどないし、時間的にもだらだらと長いのだけど、なぜかずっと聞き飽きない。

 有名なマスターやチャネリングの動画などにもない、不思議なパワーがあるようにさえ感じます…。

9149
こんばんは。

難しいことは私にはわかりかねますが、

輪廻転生があるのなら、(この世での)各自のステージ(ニルバーナへの道?神への道?)があると思われ、それがこの世では各々が一緒くたに現れている状態であり、その中にあって無我を知りうるステージの者がありうるのかと思います。

その無我を知りうる者でもこの世では同じ存在として生きているわけであり、無我へと向かう者(他のステージの者)への救済としての慈悲というものがあるのかなと思います。

ブラフマンとアートマンは同一であるというのもアートマンはブラフマンの現世への一部の現れであるとしたならば原理的には同一であると解釈できるのではないでしょうか。

見当違いのことを言っていたらごめんなさい。

9150
ひまわり様

 こんにちは!

 少し紹介した「仏教思想のゼロポイント」の本でも、まさにその点が中核テーマのひとつになっています。

 そもそも何が「輪廻」しているのか?
 そして、無我に達した解脱者が、苦しみに陥っている人々を救うのは――、「必要だからする」のではなく、「意味があるからする」わけでもなく、いわばそれは「遊び」であると…
 ただし「遊び」だからと言って、真剣に行わないわけではない、ということが述べられています。

 そして仏教における本当の「慈悲」についてや、ブッダ自身がとった態度、後の仏教が示す方向について、実に分かりやすく論理建てて説明されていて、読んでいてその明快さに感心させられます。

9151
私は光奈さんのような状態になったことが
ありませんのでよくわかりませんが、
無我は自然ですのでなんの問題もなく、
状況に合わせて勝手に変化しなるようになりますね。

気づきの幸福感はいいですよ。
もしかすると麻酔のようなものかもしれませんが
思考が薄れると楽なものです(笑)
それも自然ですね。

9152
無我は『無常の愛』でしょうね
最近、バシャールの『プライム・パーティクル『たったひとつの原初的な粒子』について、繰り返してイメージを膨らませていました。
(20年前なら語られることはなかったと思いますが‥‥)

覚者たちが言わんとする『無/無我』は、
プライム・パーティクルという究極の真実を指しているのであって、
そこから生まれた魂に刻印されているものは、
やはり『愛』でしょうね。

だからこそ覚者であれ誰であれ、「救い」や
「憐れみ」が自然に沸き起こるのだと思います。

たったひとつだけの原初的な粒子が、
毎秒100万回以上の振動をしながら、
無限のスピードで動く世界観‥‥。

それを知ったとしても、
輪廻の目的が『無償の愛』にあることは変わらないし、
むしろ、人類の意識が急速に進化するための、
対極からのメッセージだと受け止めています。

9153
とてもわくわくするんです☆
非二元のメッセージは頭ではまったくわからないのに、お話しを聞いているだけで、何だか嬉しくなってしまいます。
どこかで知っているような…。
相反するものが同時に在るのが人間なのかなと思います。

9154
こんばんわ
私はあまりスピリチュアル本読んだりネットはみないのですが光奈さんのブログはいつも発見だらけです
普段から自分の感覚をたよりに生きていますよ
だからいろいろ知りません
最近
不登校1年半の小6の息子が「神様はいないよ」「神は自分だから」とか冗談まじりに言うんです
そして橋からみえる町並みをみて「まるでジオラマだねーなんだか世界には自分しかいないっておもえるよ」というんですよ・・・・そして「この世界は誰かの空想のもとにできていたら自分は存在しない」というのです
精神がどうにかしてしまったのかなと思いましたが
ブログを読ませて頂いて、そういう感覚って、あるんだなと思いました


私的には学校の繋がりがないからそのような疎外感がうまれているのかなと心配になっていたのです

普段は明るく楽しい性格の息子の状態からして大丈夫かなともしかしたら普通の感覚なのかなあと思えてきました



9155
ひらた様

 こんにちは!

 まさにそれが自然なのでしょう。

 なので「麻酔」というより――、状況や出来事などに対する余計な解釈がなくなるぶん、「感覚がより明晰になる」ということかもしれないです。

9156
風子様

 こんにちは!

 バシャールは、いわば万物創造の本源を「粒子」として言い表しているのですね。
 同じように、インドの神話では、それはオームの「波動」だと言われています。

 粒子であり波動であるというのは、まさに量子力学の世界でもありますね。

9157
misa様

 こんにちは!

 本当に面白い力があると思います。

 また文字で書かれたものを読むよりも、動画などの音声をただ聴いているほうが、その世界に包まれていくような感じがしますね。

9158
kanonnaroma様

 こんにちは!

 すごいですね…。息子さんが言われていることは、まさしく世界的なマスターなどが説く話と同じだと思います。

 僕の身近な知人にも、お子さんが不登校という方が何人かいます。
 そうした子供は、従来からの価値意識に巻き込まれたり指向していないぶん、純粋な本来の観点から世界をとられられるのでしょうね。

9159
すべては完璧
光奈さん、こんにちは。

姪っ子が私大受験のため、9日上京します。
親同伴の予定でしたが、一人で大丈夫らしいです。

さて、姪っ子がどんな物語を創っていくのか(既に決まっている!)
楽しみにしながら見守っています。
昨日、絵手紙で激励文を送りました。
一生懸命勉強している姿に感動していると伝えました。

大学受験経験のない私が知らない世界を姪っ子は今経験している。
それだけでもわくわくします。

合格してほしいという強い気持ちは湧いてきません。
母の病気が再発しないようにとも思っていません。

そういえば、以前はすべての人に幸せになってほしいと思っていましたが、
そんな気持ちも薄れてしまいました。

すべては完璧に起こっている。心配無用。

母に言いたいことを、テレビが代わりに言ってくれます。
母がそれを受け止めるかどうかは、母の勝手です。

母の誕生日祝いにも絵手紙描きました。
そこに書いたメッセージ、さて母の心に届いたでしょうか。

9160
拍手をしたら、サクラソウが咲いていました。
姪っ子は合格するのでしょうか。

たとえ合格できなくても、姪っ子は素晴らしい人生を送る
と私は思い込んでいます。

9162
上中下の丹田を活性化する修行者にとっては何も矛盾も理解困難も感じません。上丹田は智慧のチャクラですし、中丹田はハート慈悲のチャクラです。下丹田は土台平安のチャクラです。それら3か所のエネルギー的開発と統合が人の進化だと思います。マインド思考だけで取り組むのは無理があると考えていますし、限界があります。


9163
あおむし様

 こんにちは!

 うちの息子も、今週はほぼ毎日入試という感じです。

 男の子なので、親が言うことには何でもひとこと「あー」(わかってる、ほっといての意)と応えるだけですね…。

 それでも当人はそれなりに自覚して、展開している人生を受け入れているのだなと思って見ています。

9164
シュウタ 様

 コメントを有難うございます!

 まさに「気付き」「ハート」「ビーイング(存在)」とも言い表されますよね。
 とても大切なとらえ方だと思います!

9165
今が一番
「すべては、完璧に起こっている」

 昨日、中一の末娘が「架空(漫画)の世界に浸るのではなく 現実(期末テスト)の世界に戻らなければ・・」
 「目標100点、席次10番以内」

 小6で人生諦めたと言って 登校拒否した一年前と比べると表情も、目の輝きも違っています  
 「自分を知るため 勉強もスポーツもするね!」
部活では、県代表 (飛行機に乗って応援行きます)

 「すべては、完璧に起こっている」
 
義理の兄は、小中高と成績優秀 県代表、国の代表で外国の高校生と競ったほど・・
大学受験で、医学部を目指し残念な結果に・・
 屈辱的な言葉をかける両親に
  一言  「やめた」  仕事もせず家に居る毎日
(我が家の子守&家庭教師を引き受けた感じ)

 そのためか?
父親は75歳まで働き(運輸大臣賞受賞)
母親の、シンプルライフの始まり・・(財産を残す)

両親の介護を最後まで行い・・喪主も立派にこなし

こんなに幸せでいいのか?と新築の家で一人暮らしながら 時々思うらしい  


「すべては完璧に起こっている」

生卵が、ゆで卵になり殻が剥がれていったように
死後の世界を認め、永遠の生命の存在を認めた私にとって
生きるすべてが、真如(あるがままであること)でしょうか
 
不思議な感じの非二元の世界に思いを寄せながら
現実の世界に向き合う・・・・今が一番です

9166
面白いですね
無我や自我、
考えさせられる用語です
社会学者ミードによれば自我とは、IとMeが二元的に存在する精神を表すようで、
そのMeは他者の投影のようなものだそうで、
MeとIを衝突させることで、公共の事を考えられるように人は成長していくそうです
この衝突過程の繰り返しにより、憐み等が生じていくのでしょうか
一方覚者への道程は、こういった過程を経て、というよりはむしろ、Iの限りない膨張のような気がします
無我というのが、我(I)が無い、ではなく、我(I)に限りがない、であったとしたら、
まさに無我そのものが、覚者へと通ずるのでしょうか
またさらには、現代宇宙論(インフレーション・ビッグバン等)では0(厳密には虚数)から始まったと推測されていますが、
そうではなく、∞から始まったと考えてみると面白いのでは、と最近秘かに思っているのです
無限への覚り(と言っても、無限への憧れ、なのかもしれませんけどね笑)

9167
やっぱり・・・あいかわらず難しい・・・。
いつか分かる日が来るかしら?
 ともかく日々の生活を繰り返してゆくだけの私でした。

9168
それもこれも
おはようございます。

ここ最近、色々な方の動画を視ています。
当然ですが、何故こんなにも視たいという欲求がわいてくるのか自分でもわかりません。
エックハルト・トールという方も初めてみました。
私が、思考に振り回されてどん底を這いずり回っているときに
このようなメッセージをちゃんと発信している方がいらしたなんて・・
(そもそも何千年も前から言われていることとはいえ)
私の「今」それがやっと聴こえるのですねー

今朝顔を洗う時、その行為に集中してみました。
(あっ!これが『カルマ・ヨガ』?)
そしてそれをみんなでシェアしあう「カルマ・ヨガノート」
ステキなネーミングだなぁ〜と今更ながら感心しました。
遅っ! そう、これが私というエネルギーの今の現れ 

だとすれば、探求に向かう人向かわない人
苦しみが続く人、楽になる人
カルマ・ヨガをやろうとする人、やらない人

みんなみ〜んな、全く訪れることでそれこそ思考を止めようとするその
意識の働きであっても「私」には全くコントロール出来ないこと・・・

言ってしまえば、今苦しくてそこから抜けようともがいていても「それ」が
訪れるまではどうしたってそこを経験していくしかない・・・

で、いいのでしょうか?



9169
光奈さん、こんにちは。

すべては完璧に起こっているのなら、あれこれ悩む必要はないけれど
悩むという行為も体験したかったのでしょうね、私も。

蛭子さんの本が売れているらしいです。
アマゾンのレビューを読んだいたら
「年賀状は、自分の作品を人に見せるのが楽しくて書いてる」

そうであったのか。

確かに蛭子さんの作品が印刷されています。コメントは手書きです。
私が蛭子さんにお送りした今年の年賀状は元気いっぱいの絵柄。
それに反応して早々に返事をくださったのでしょう。

蛭子さんの本を読みたくなりましたが、この数か月読書をしていない私。
かたづけと絵手紙で毎日楽しんでおります。
春までには読書も楽しみに加えます。

9170
全て幻影?
「私はいない、ここには誰もいない」なんて不思議な感覚


仕事しながら、( ゚д゚)ハッ!と思い出したことを書かせて下さい

小5の頃 毎日のように嫌がらせをする男子A・B
家に帰る途中 後ろから小石を投げられながらも、我慢して相手にしないようにしていたが、家に着いて母親の顔を見ると、我慢できなく泣いてしまいました。
 
 驚いた母親は、外に飛び出し5年7組の名札のついた男子A・Bを家まで引っ張り連れてきて、私が止めても、二人を叱り 娘が泣いている理由を聞いても 誰も口を割りませんでした。(私も)
 
 翌日、学校に行くと案の定、男子A・Bは、昨日あったことを皆に話し、
私の立場は、ますます悪くなるばかりでした。

小5の私は、不安で暗くなる 
 出来たばかりの高層団地の最上階から下を眺め(ここから飛び降りたら楽になるかな・・いなくなりたい)
想像力を頼りに、自分を落としてみました。自分は、落ちていなくなった。(脳をだます感じ)

自分がいなくなった 新しい世界を生きる 不思議な感覚
 家に帰り、ここが家か?この人が母親か?

新しい自分だから、男子A・B2人に立ち向かう決心が付く

男子Aの家を探し、門を開けると 庭で立ち○ョンをしているAがいました。

私に気が付き、驚いたAは急に止めることも出来ず
 A「いつからそこにいる?」
来たばかりだが
 私「ずーっと前から・・トイレもないの?」
翌日から何も言わなくなる

男子Bの家を探し行くと、そこは川を挟んで私の家が見えました。
私に気が付いた、男子Bは
 B「何しに来た?」
 私「あなたの親に、いじめられていること相談に来ました」
 B「バカ!帰れ」
 勇気を出して言ってみた
 私「威張らないでよ!」
翌日から何も言わなくなる

Bの家から見える私の家・・

ブランコに滑り台・鉄棒にジャングルジム
3階建ての家に外車が数台 1階が銀行で警備員がいる家
家の遊具を使っているだけで、金持ちと威張っているように見えるらしい
 

父親に、妹も同じようなことを言われていることを話すと
すべての遊具を小学校に寄贈してくれました。

父親は、15歳の時 海軍に志願して戦争に行きました。
継ぎはぎだらけの服を見た人に「お前は、乞食の息子か?」と言われ、泣く泣く(母さんごめんね)と海に捨てたそうです。  母親とは、戦争で死に別れです

Bの家から我が家を眺めた心は、少年時代の父の心

現象世界は全て幻影だから 「私は、いない」
 今は、理解に苦しみますが・・ハイ


9171
T様

 こんにちは!

 すべては完璧に起こっている――
 でも、分離したエゴ意識にとっては、どうしても「不満足」に行き着くことになるんですよね。

 すべては幻影――
 でもその幻想とは、常に変化し続ける「終わりのない幻影」であり…、いつまでも終わりが来ないので、現実に存在するのと同じとも言えます。


 なかなか不思議な経験と感覚ですね。
 「不思議」とは、私たちがいくら思考しても、どのように議論しても、とらえようがないものごと――、つまり「『思議』することが不可能なものごと」のことを「不思議」と呼ぶそうです。

 身近な言葉だけど、いい意味ですよね。

9172
ふがいないぼくはつぶやく様

 こんにちは!

 覚者などの講話の中でも、「I」と「Me」を厳格に言い分けているケースがありますよね。

 「ゼロ」の意味も、本当に途方もなく深遠です。
 それはまさに「無限」であり、また一切の他が存在し得ない「1」であるとも言えます。

9173
なのはな様

 こんにちは!

 分かると思いますよ!
 分かったときには、「あのブログに書いてあったややこしい話は、まったく無駄なものだったな」ということになるでしょうね…。

9174
あおむし様

 こんにちは!

 「悩み」も勝手に湧いてくるものですよね。

 不都合な状況と、それに対する思考や感情が、自分自身の意図とはかかわりなしにやって来て――、
 しばらくそこで渦巻いて(場合によっては延々ととどまって)、でもいつか最終的には状況が変化したり消え去っていく。

 幸いなことにというか、悩みもまた、例外なき「無常」の一部です。

9175
fijiwara 様

 こんにちは!

 エックハルト・トールは、十年以上も前から世界的に有名な人ですが…、メッセージに巡り合う「ベストなタイミング」というのはきっとあるに違いないです。

 この人のメッセージは、動画以上に、本を通じて受け取るものがとても大きいと思いますよ。


 「いま苦しくて、そこから抜けようともがいていても、『それ』が訪れるまではどうしたってそこを経験していくしかない」というのは、本当にその通りだと思います。
 そうするしか道はないです…。

 でも、「まさにこの自分が苦しんでいる」というとらえ方と、「いま苦しみがここに現れている」というのとでは、いわば「在り方」が決定的に違っていると言えるでしょう。


 以下、エックハルト・トールの「ニューアース」で語られている一文です――

 「本当の『私』というものには形がない。
 知ることの対象になり得るのは形だが、『形のない次元』がなければ、形の次元も存在できない。
 『形のない次元』とは、現象世界が立ち現れては消える空間、『私は在る』ということだ。空間で起こる出来事は相対的で一時的だ。喜びと苦しみ、獲得と喪失、生と死だ」

 「内なる空間の発見を妨げる最大の障害は、経験に没入するあまり、本来の自分を失うことである。思考、感情、経験に占領され、夢の中にいる状態になる。何千年もの間、人はこの状態が普通だった。
 意識を『知る』ことはできないが、意識を『意識する』ことはできる。どこでどんな状況にあっても、直接的に感じることが可能だ。それが『私は在る』ということ、すべての思考や感情、経験を支える『背景』である」


 もう一つ、これこれもエックハルト・トールの言葉です――

 「出来事や経験に『悪』というレッテルを貼るのをやめ、かわりに『イエス』といって受け入れるとき、そして物事をありのままに放っておくとき、どんな変化が起こるか観察してみてください」

9176
はじめまして
はじめまして。ときどき拙ブログに拍手をいただいていましてありがとうございます。
無我は無情か
と題した今回の記事に少し惹かれるものがありコメントさせていただく次第です。
結論的なことを申せば、無我は無情でもなく有情でもない、という気がいたします。矛盾した表現ですが、言葉で説明しようとすると、どうしてもこのように矛盾した表現でしか説明できないのだろうという気がするのですが。
同じような表現で、例えば、何も所有しない者はすべてのものを所有する、というのもありますね。
普通の人間には、ものごとはすべて二元的すなわち相対的な見方しかできないのではないかと思います。
以下の文章は、ある仏教関連のブログから拝借したものですが、
-----
「法身仏」とは「法性法身(ほうしょうほっしん)」とも言われ、色も形もない、形相を超えた真如(しんにょ)そのものとしての仏さまです。姿形のない、言葉にもならない真如そのものを人間が知ることはできません。
-----

科学(特に西洋科学)が進歩してきても、というか科学が進歩してきたからこそますます二元的な見方しか人間にはできないということを思い知らされているような気もします。
二元を超えた非二元と言葉では云えるものの、非二元の存在を見ることはまだできていない。西洋的科学では物を分析するイコール細かく分けて見ることをして(研究者の専門分野も大変細分化されて)きましたが、人間の体にしても物質で構成されて(宇宙の始めから続いている因と縁が寄り集まってできて)いるので、「我」などという実体があるわけではない、というようなことが、ようやく科学的な裏付けを得て分かってきたからこそ、二元を超えた非二元の方向に人々の目が向いてきているのかなというような気もします。
-----
この世界は、ただ現れているだけ。
 瞬一瞬が完璧だけれども、すべてが中立的で意味はない。

 でも、それにもかかわらず――、
 「共感」や「救い」も自然に現れてくることが、この世界の大きな神秘でもあるなと思いますね。
-----
とポジティブに結んでいらっしゃるように、共感や救いが求められている時代に入っているのでしょうか。
共感や救いはどこから生まれるのでしょう?子供を見守る親心みたいなものでしょうかね?



9177
こんにちは
ここでおこなわれているような、さまざまな意見交換などの知性での非二元へのアプローチの試みに関してラマナマハルシは、覚醒に向かう道の途中までは有効なものといっていますね。(最終的には恩寵がおどづれるかどうかってとこでしょうけど)プンジャジは欲望と呼ばれるものの中でも、唯一覚醒への欲望だけは足跡をのこさないためむしろ持つべきとも言っていたような気がします。 
あとちょっと思った事。覚醒の感覚は次元そのものをこえたもののため、実際にそこに本人が至る以外知りようがない。
がんばっていろいろなかたちで表現されてはいるけどやはりわからないもの。ふつう人間は未知のものにはどうしても、むしろ恐怖心すらいだきがちなのは仕方がないかもしれません。 
ラマナマハルシは16歳の時点で覚醒が起こったまさにそのときは、三次元的自己が死んでゆく恐怖におそわれた。時間とともに恐怖が消えてゆき、他人からの屈辱といった以前は嫌悪感をいだいていたはずの事柄などにも嫌悪感が薄れていき安静、静寂へ移行していった。 プンジャジは5~6歳の幼少期に覚醒がおとずれ、とにかく恍惚に満ちた体験でありこれ以上のすばらしものはありえないという感覚だった。のちに通常生活に戻るもずっとこの感覚のすばらしさが忘れられず追い求めラマナマハルシのアシュラムへ至った。 
スティーブンノーキストは三次元的自分の段階的な消滅を感じて恐怖感を感じ、同時に行為者おらず、空っぽという感覚を強烈に感じた。そのまさに当時の文章はそればかりが強調されている。しかし何年か後の彼の文章からはよくいわれる静寂とか美とかを表現している。  
ルパートスパイラは愛という表現を強調している。ただよく読むと変容の過程では人によって恐怖感がわいてくることもあるといっている。  
以上のことから、肉体プラス心こそ真の自己とし、それを取り巻く世界において展開されるドラマどっぷり度が高ければ高いほど覚醒に対面したときの落差恐怖が増してしまうのかもしれないと思いました。興味深いのは5~6歳のプンジャジがなんの恐怖も感じてない点です。ルパートスパイラもそうかもしれませんが。
覚醒者に関する引き出しが自分は少ないのでなんともいえませんが。
あと覚醒のことばっかり日常で考えるのもそれはそれでディープすぎてしんどいかもしれませんよね。笑

 



9178
anewako様

 初めまして!
 コメントいただきとても嬉しく思います。

 まさしく「姿形のない、言葉にもならない真如そのもの」こそが「それ」なのでしょう。
 直前のコメントで引用した「形のない次元」というのも、きっと同じことを指しているのだろうと思います。


 不可知な次元から生み出されるものが、すべてまったく不可知なものであってもおかしくないのですが――、
 でも私たちにとって親密なものや、かけがえのないものも現れてくることは、本当に神秘ですね…。

9179
タカヒロ様

 こんにちは!

 プンジャジは、私たちが抱いている「欲望」の問題点を非常に厳しく説いていますが、そのような状態から「自由になりたい」という欲求や熱意については貴重な「導き」だと語っていますよね。

 以下はそのプンジャジの言葉です――

 「自由への欲求は、心でコントロールできない場所からわき起こる。この願いが呼び起されると、それに抵抗することさえできなくなる。あなたの注意を呼び覚ますのを止めることもできない。
 そして、見つけがたい自由を求めて、あなたはさ迷い続けることになる。『自由への欲求』はあなたを悩ませ、それを満たすまで落ち着くことができない。
 それは極めてまれな出来事でもあるのだ。この自由への欲求がそれほどまでにあなたを苦しめるとき、それは何としても自由を得ようとする力を持つ」


 またタカヒロさんが言われる通り、「覚醒のことばっかり日常で考える」ような極端に没入した生き方をプンジャジは善しとしていなくて――、そのいわばバランスは、とても大切だと僕もいつも思います。
 以下もそのプンジャジの言葉です。

 「多くの人が、逃げ出すことによって、人生に新しいことが起こるに違いないと考える。だがそのようにはいかない。
 私はヒマラヤで、実際に超能力を達成した行者に会ったこともある。ところが、ヒマラヤを広く探し回ってみたところ、そこにいる行者の中で『真の自由』に達した人は誰もいなかった。
 一方で私は、インドでも西洋でも、家庭を持ちながら優れた人たちに出会ってきた。彼らは、世間で一般の生活をしながら、行者よりもはるかに成功を収めている。
 それゆえ私は、仕事や家庭から逃げ出すことを勧めない。仕事をするがいい。仕事をするかしないかは、『真の自由』とはまったく関係がない。逃げ出すのは時間の無駄だ。逃げ出して、新しい場所を探すまでの間に使う時間を、今ここで自分自身のために使うほうがいいのだ」

9180
それで実際
プンジャジが出会った人たちの中に「一般の生活をしながら真の自由に達した人」は何人もいたのでしょうか・・・・。

「優れた人たち」「行者よりもはるかに成功を収めている」というのはなかなか微妙な表現です。
この世界には優れた人や性格的に素晴らしい人達は非常に沢山いますが、それとプンジャジの言う「真の自由に達している」というのはまた別の事だろうと思います。

この短い引用ではプンジャジがこの2つを同じ意味で使っているのかどうかは分かりませんが、多分違うでしょう。
実際に出会っていたら、はっきり「私は、一般の生活をしながら真の自由に達した人たちに何人も出会った」と言うでしょうし。

何度か書いている気がしますが、個人的には「真の自由に達する(悟りを得る)ためには家庭も仕事も捨てて出家しなければならない」という考えの反動が来ているなとよく思います。
つまり、逆の「真の自由に達するには家庭や仕事を捨ててはならない」という考えが主流になっている。「それがバランスの取れた生き方だ」と。

でも、これはどちらも正しいし間違ってもいる、と思います。
個人の魂の選択はそれぞれで、ある人から見れば「アンバランスなほどに傾倒している」と見える選択や行動が、その魂にとっては必要な、あらかじめ決めてきた道なのかもしれません。

ですから、「これこそが正しい在り方だ」と決めるのは危ないなとよく思うのです。
いわば、出家・在家のどちらかが正しいとかバランスが取れているとか考えてしまうと、結局もう片方を批判する事になるからです。









9184
Clary Sage様

 こんにちは!

 ひとつの道に徹底的に傾注する過程が必要な人生も、人によってもちろんあるはずです。

 おそらくそのような道を歩む人に対しては、プンジャジは全く異なる観点のメッセージを強調して説くだろうと思います。

9197
>この世界が神の愛ですでに満たされていることを悟ったあとに、病人や貧しい人々への奉仕活動を始めている

この世界は確かに愛で満たされているかもしれない、でも完璧ではないことを知ったのでは?
昔のラノベのこんなのがありました。
悪役がいない、誰のせいにもできない、それがどれほど残酷なのか、みたいな。
設定としては、
宇宙人と交戦中。
絶望的な戦況。
飛べるパイロットは少女一人。
飛ばさなければ、人類滅亡。飛んでもただのその場しのぎで近いうちに滅亡。
その上で、飛びたくないという少女の最後のひと押しを任された少年は…。
みたいなのです。

世界の外側に出た時に人は知るのだと思います。
この世界が決して完璧でないことを。
エネルギーの移り変わりなんてないし、
死んでいく命に意味などないことを。
確かに、この世界の外側で物語を描き続けている奴は世界を守ろうと日夜戦い続けているかもしれない。
それでも、力及ばずその手をすり抜けていく命がある。

でも、それは知らなくてもいいことではないでしょうか。
この世界は完璧で、あなたのお子さんの死もきっと何か意味があったことなのだ。
そんな嘘でも慰めになるのなら、そんな風に思った連中のはかない祈りが「この世界は完璧にできている」なのかなと思います。
しかし、知ってしまった連中はもう元には戻れない。
だからこそ、せめて救えるものを、と行動する。
世界の外側で戦う誰かと同じように。
誰かの取りこぼした命を一つでも多く受け止めるように。
それでも、自分の手をすり抜けていく命を見た時、心から憐み慰めるしかできることは残って無かったのでしょう。
そして、それはより無我へと…
無我とは、我などいない、ではなく
我などなくていい、だったのではないでしょうか。

勝つために邪魔なプライドならそんなのいらない。
みたいな感じでしょうか。

9205
野良猫様

 こんにちは!

 ここで言う「完璧」は、私たちが日常的に考えている「完璧」さとは、かなり異なる意味合いがあると思います。

 今のこの瞬間に、これ以外にあり得ない世界が立ち現れている、という感じでしょうか。

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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。





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