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 今回は、僕自身のかなり内面的な話です――


 親しい友人とかに何年かぶりに会ったときによく、「お前、あまりしゃべらなくなったなぁ」とか、「ずいぶんおとなしい人になったね」と言われ、かなり意外がられることがある。

 自分でもそれは自覚していて…、
 そう、以前の僕は、本当に機関銃のごとく早口にいっぱいしゃべっていた。

 とはいえ今も、初対面の人からは「面白いことをたくさん話されますねぇ」と言われたりもするから、一般的にはまだ「冗舌」な部類に入るだろう。
 せっかくその人と会ったのだから、相手に喜んでもらって、自分も楽しまなきゃと思い、話を弾ませることになる。


 でも以前は、そんなレベルではなかった。
 もちろん、いたずらにしゃべりまくるわけではなく、相手から「なるほど鋭いことを言うね」とか「それは面白いアイデアだ」と評価されることは、仕事でも役立つ有力な利点だったし、僕自身の「主たる個性」でもあった。

 でもそんな「かつての自分らしさ」は、この数年間で本当にどんどん消失してきている…。
 理由は、「頭脳の回転スピードが減衰してきたから(歳のせい?)」ともいえるし、あるいは「マインドの活動そのものが不活性化したため」ともいえる。


 自分の頭の中の様子を、意識的に眺めてみると――
 以前は、目の前の出来事や相手の話に常に反応して、頭の中にまず何らかの「発想のタネ」みたいなものがフッと生じていた。

 すると瞬時に、そのタネに呼び寄せられるように、関連するさまざまな考えが頭脳全体からわーっとわき立ってくる。
 そして、それらの考えが(まるで自ら意図を持つように)次々に自動的に関連付いてくっつき合い、思考活動や言葉が展開されていく、というような形だった。


 でも現在の頭の中はというと――
 周りの何かに反応して「発想のタネ」がフッと生じても、それは湯気のようにはかなく消えていったりする。

 以前のように「関連する考え」がわき出てきても、それらがくっつき合う意図やパワーがとても希薄だ…。


 こうした変化をありありと感じ始めたのは2年前からで、過去記事の「さようなら、わたし」でその感覚や思いについて書いています。
 当時は、「思考活動がこのペースで鈍っていくと、ブログも近いうちに書けなくなるかも…」と思っていたのだけれど、こうしてまあ何とか今まで続いてきております。


 マインドが不活性になることで、余計な思考や反応パターンに巻き込まれずに済むことは、「生きやすさ」の面でとてもメリットがある。
 でも、以前のように頭をフル活動させながらバリバリ仕事をするのは難しいだろうし、「かつて自分らしさ」が消えていくことには多少なりのさみしさも感じるものだ。

 きっとこのブログを読んでいる方の中にも、同じようなプロセスを経験されている方がいらっしゃるのではないかなとも思う。


 過去記事でも紹介したけど、OSHOはそうした頭の中の変化について、次のように語っている――。

 もし言葉の代わりに静寂がやって来るようになったら、人はハッピーになっていい。祝福されたと感じていい。
 前に来ていたのに来なくなった言葉を心配することはない。何か別の途方もなく価値のあるものが、なたにやって来ているのだ。
 あなたは、まだそれを認識していない。


 で、ここからが本題といえるのだけれど――
 実はこの数カ月のうちに、思考活動がさらに一段とガクンと低下した印象だ。

 マインドが静まることによって、「祝福」された感覚が訪れるのかというと、そういうわけではぜんぜんなくて――、
 むしろ逆に、とくに理由のない「胸の苦しみ」が、日に日に強まってきている…。

 これには僕も弱ってしまう状況で――、
 ちょっと大げさに表現するならば、「生きることの手詰まり感」というか「完全に孤立しきった無力感」というか…、闇に覆われていく中で、むしろその闇からずっと抜け出したくないような、何とも動きようのない状況である。


 まぁ、そんな内側の様子に関心を向けて観察していられるぶんには、「まったく大した状況ではない」と言えるかもしれないけれど…、
 きっとこれについても、同じ経験をされている方もいらっしゃるのではと思い、続きを次回に書きたいと思います――。



結びのヒーリング・ミュージックは、Llewellyn「A Glimpse of Paradise」。
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 このブログは今年で5年目になります。
 何年か続けていくうちに、「この時季にはこの話題」という定番のようなものが出てきたりもしますね…。

 今の季節になるといつも感じて、つい書きたくなるのは、「春」の予兆や香りについて。


 まだ1月下旬だから、吹く風はとても寒いし、これからさらに冷え込みが厳しくなっていくわけだけれど――
 でも公園とかを散歩していると、桜などの枝には、たくさんのつぼみが膨らんできているのが分かる。

 また天気のいい日は、小さくちぎったような白い雲が遠くの空に浮かび、それを眺めていると春のうららかな温もりを思わせる。

 大きな川沿いを歩くと、川面は濃い青空を映している。
 この季節は太陽が低く、空気が乾いて澄み切っているぶん、川の色が本当に尋常でないほど青々としてきらめいている。


 そして、少し暖かい日に外で深く息を吸い込むと――、湿った土のような、生命の息吹ともいえるような、何ともいえない「春の香り」が大気に満ちているのを感じ取れる。


 草木が芽吹いて花々が咲き誇る、春爛漫のシーズンはもちろん素敵だけれど――、
 でも今の「まだぜんぜん春になっていないのに、春のきざしを感じるとき」って、とても魅力的な時期のように思えますね。

 何だか、胸のずっと奥のほうでは、「春以上に春らしい」感覚もする。

 きっと、冷え込みが厳しくなるときに桜のつぼみが膨らんでいくように――、私たちの中でも、生命エネルギーが新しい季節に向けて、知らず知らずのうちに呼応しているのでしょう。


 そしてそれは、一年の季節の移り替わりだけではなく――、「もっと大きな時代変化」としても、今ちょうどそういう「移り変わりへの時期」にあたるのだろうとも感じます。

 周りの世界まだ、春には程遠いようにしか見えないですけどね…。


 結びのヒーリング・ミュージックは、Kavin Hoo「Waltzing Leaves」。
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 僕が大学を出て社会人になったのは、バブル経済の絶頂期でした。
 その当時は、大きな家に住んで、高級車に乗って、贅沢なお店で食事をするといったことなどを、当然のあこがれとして目指していたし、日本の社会全体がそのような風潮に満ちていましたね…。

 もちろん「しょせんサラリーマン」だったけど、幸いにも給料のいい会社だったので、ある程度のレベルまではそれを享受してきたと思う。


 でも、今はと言うと――、いちおう貯金などは当時よりも持っている一方で、そのような暮らしをしたいという意向がまったく出てこない…。
 別にお金のかかる生活をあきらめているわけではなくて、それ以上に「シンプルな生活スタイル」のほうに強く心が惹きつけられてしまう。


 昨年に一度書いたことがあるけれど、ぜひ家はこのような「スモール・ハウス」に住みたいですね。
 3坪(約10㎡)ほどの中に、住宅として必要な機能を収めてある。

 ちなみに、今回の記事タイトル下の写真は、800年前の歌人・鴨長明が暮らした「方丈庵」で、こちらもほぼ同じ広さだ。

 おそらく、人が「本能的に落ち着ける空間サイズ」というのが、ちょうどこれくらいなのかもしれない。


 そんな、「親密な広さ」の我が家の中で、自分がただ穏やかに座っている情景を想像しただけでも、何だかとても心ときめくものがあります。


 食についても、ゆくゆくは「1日1食」にしたいなと思う。

 今は家族分の食事を毎日作りながらも、自分は半端な量を皿に盛ってササッと口にする程度だから、だんだんとそのような少食生活に進みつつある。

 かつてサラリーマン時代の、タバコを1日1箱吸って、毎晩アルコールを飲んで、腹いっぱい食べて小太り体型だったころに比べると、体調はまるで「別の体に乗り替えた」くらい調子良く感じる。


 食・住に加えて、「衣」についてもシンプル化してきた。

 もともと服はそれほど持たないほうだったけれど、最近は下着やシャツやズボンなどの「同じ服」を2~3着同時に買って、それを着回ししている。
 だから、着替えてはいるものの、毎日ほとんど同じ格好だ…。

 また靴も、同じモデルのシューズを3足持っている(普段用と、ゴアテックス仕様の雨天用、ワンサイズ小さい夏の裸足履き用)


 そうすることで、着るものを選んだり、整理する手間もずいぶん省くことができる。

 超著名人を引き合いに出すのは気が引けるけど…、スティーブ・ジョブズや、フェイスブック創業者のマーク・ザッカーバーグもそのようなメリットを語っているから、きっといいやり方なのでしょう。


 そして、これはほとんどの人に言えるだろうと思うのは――
 はじめは誰もが「色んなものを所有・消費する豊かさ」を目指すものの、でも一度「シンプルな生活スタイル」へと志向を転じたならば、もう逆戻りすることはあり得ないのではなかろうか…。

 だって、居心地が良くて、健康で、余計な気を使う必要もなくなるならば、逆戻りする意味がない。


 さらに何より重大なポイントは、「お金がかからない」ということだ。

 ところでもし、先進国の人々や、途上国の比較的豊かな層の人々のほとんどが、「スモール・ハウス」や「少食」などを志向していったとしたら、一体どうなるだろうか?…


 世界のマネーの流れというのは、人々の「所有」や「消費」、そして「拡大」への欲望によって支えられているとも言える。
 世界経済を牛耳っている黒幕がもしいるとするならば、人々のそうした欲望こそが、コントロールの原動力でもあるはずだ。

 そうした中で、世界の多くの人々が「シンプルな生活スタイル」へと傾倒していくというのは――、既存のマネーの流れにとって、ものすごく「不都合」なことに違いない。


 それはたぶん、これから起こっていくように思う。
 シンプルな生活スタイルが、どんどん人々の心に浸透していき、それがマネーの流れに影響し、世界の大きなあり方をも変えていく…。

 それはとても個人的で、静かな意識の変化でありながらも――、この世界の全体に働きかける、大きな意図であるように感じますね。



 結びのヒーリング・ミュージックは、Imee Ooi「Om Mani Padme Hum」。
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 息子のセンター試験がとりあえず終わって、しばらくしてから私立大の入試ラッシュが続きます。

 どこに行けるかはまだ分からないけれど――、2カ月後にはすべてが決まり、今とはいくらか状況の違う人生展開が始まっていくことになる。


 で、進路が決まった時点で、「引っ越し」をしようと思っている。
 今の賃貸マンションは5年ほど住んだし、通学に便利で安いところがあるならば、今の場所にずっと居着いている理由は特にない。

 このへんは、「賃貸派」の身軽で自由な利点ですね。
 もちろん、2カ月後にどの地域へ引っ越すことになるかは(いずれにせよ東京近郊だけれど)、現時点では「神のみぞ知る」ところです…。


 昨日に、「近く引っ越しをするわけだから」と、かねて処分に迷っていた品々の片付けに着手した。

 うちはかなりモノが少ない暮らしをしていて、この5年間に増えた家財などもほとんどないのだけれど――、
 ただ、ここへ引っ越してくるときに、子供が幼少期のころに遊んだおもちゃや絵本などを、「これはけっこう思い出深くて捨てにくいから」と、そこそこの量まとめて持って来ていた。

 その「すでに使うはずのない古いもの」の存在が、意識のどこかにずーっと引っかかっていた。


 そして昨日、それらを詰めた箱を、押入れの奥やベッドの下からほじくり出し、意を決して片付けることにした。

 息子に「この中で “ときめき”を感じるものはない?」と尋ねてみたら、きっぱり「何もない」とのこと…。
 ま、男子高校生にしてみたら、自分が小さいときに使ったおもちゃなんて、ぜんぜん興味がなくて当たり前でしょう。

 もちろんさすがに全部は捨ててしまわないけれど、「遊べるほどの量」を取っておく必要なんかない。
 「思い出」としていくつか残っていれば、それで十分に足りる。


 調べてみたら、ブロックの「レゴ」やミニカーの「トミカ」、「プラレール」などは、おもちゃの中古品店が買い取ってくれることが分かった(ネットで見積もり依頼してみたら、思ったよりも良い値段が付くことが判明した!)
 絵本などもブックオフに売ることができる。

 また、整理を進めていったら――、売り物にならないほど汚れたものは「よく遊んだ思い出深いもの」であり、きれいな状態のままものは「単にもったいなくて捨てられなかっただけ」と、処分の線引きもとても明白であった。


 家の中に長く滞留していたモノを手放すことは、常々どこかで感じていながらも目をそむけていた心のわだかまりが、パッと晴れたみたいな気分である。

 過去の世界に下ろしていたアンカーが外され、新しい「動のエネルギーの流れ」に乗っていく感じがする。
 それが、息子の進学にもいい影響があれば嬉しいですけどね。


 そうして昨日の夜に、いくつかの段ボール箱に詰めて発送準備を済ませ(おもちゃの箱は大きいし、本は相当に重い!!)、荷物の集配を「明日の午前中」の指定で依頼したところ――、
 朝起きたら、東京はこの積雪である…。

 うちはエレベーターのないマンションの3階でもあるので、「こんな日に、よりによって申し訳ない」と恐縮しつつ、いま宅配便業者さんが取りに来るのを待っているところです…。


 結びのヒーリング・ミュージックは、Patrick Kelly「Lifting of the Veil」。
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 人類は、生命進化によって「脳」を大きく発達させることで、高度な知能を手に入れたといわれます。

 私たちが常にこうして色んなものごとを考えたり、複雑な社会生活をいとなんでいるのは、まさに発達した脳による賜物でしょう。


 でも、それとはいわば全く逆に――、本来の私たちは果てしない知覚によって無限の叡智につながっていて、それを大きな脳が「遮断・制限」しているという考え方もあって、とても面白いなと感じますね。


 ブログでときどき引用する脳神経外科医で臨死体験者のエベン・アレグザンダーは、こんなふうに語っている――

 「私たちが身体にいる間は、背後にある広大無辺な次元を『脳』が覆い隠してしまう。
 左脳にある、分別や自我の意識を抱かせる部分は、高次元の知識や体験を得るうえでの妨げになっている」

 「脳は、本来の広大な意識を、身体にいるわれわれが許容できる範囲に制限する“フィルター”として働いている。
 この世界から見れば、それにははっきりした利点がある。
 周囲からなだれ込んでくる情報をろ過し、生存に必要なものを選り分けてくれる。そのお陰で、物質を超えた自らの本質を忘れた状態で、自分が今いる場所に効率的に集中することができるわけだ」



 同じくエリート脳科学者のジル・ボルト・テイラーも、自らが脳卒中に襲われて左脳の機能が壊滅したときに――、
 周りのあらゆるものと境界なくひとつになるという、信じられないような平安に満ちた至福の世界に包まれた。

 それは愛の光が注ぐ、言い表せないほど美しく荘厳なところであり、私たちがいるこの世の真の姿であったという。
 このとてつもなく素晴らしい空間のことを、同氏は親密さを込めて「ララ・ランド」と呼ぶ。

 彼女の体験は、さまざまな覚者が語る「ニルヴァーナ」の様相にも共通しているし、最近よく言われる「ノン・デュアリティー」の世界ですよね…。


 最近読んだ「なぜ人は生まれ、そして死ぬのか」(バージニア大学客員教授・中部大学教授 大門正幸著)の本の中にもこんな一文があった――

 「心霊研究協会の創設者の一人であるフレデリック・マイヤーズや、アメリカ心理学の父ウィリアム・ジェームズ、作家のオルダス・ハクスリーらは、脳の役割を一種の“ろ過装置”のようなものだと考えた。
 哲学者のチャーリー・ブロードは次のように語っている――
 『人間はどの瞬間においても、自分の身に生じたことをすべて記憶することができるし、宇宙のあらゆるところで生じることをすべて知覚することができる。脳の機能は、この巨大な量の知識のために我々が押しつぶされ混乱を生まないように守ることである。
 放っておくと我々が知覚してしまう大部分のものを締め出し、わずかな量の、日常的に有効そうなものだけを特別に選び取って残しておくのである』」

 これは、脳神経の専門家であるアレグザンダー氏の見解とも、かなり共通していますよね。


 もう一つ、最近読んだ「彼岸の時間」(明治大学情報コミュニケーション学部准教授 蛭川立著)という本に、著者自身がアマゾン奥地のシャーマンの儀式に参加したときの神秘体験がリアルに描写してあった。

 「あちらの世界へ旅する」というその儀式が始まると、やがて色とりどりの光が現れ、意識が暗闇の中へと落ち込んでいき、自分の身体が死体のように感じられたそうだ。
 そして妖精のような歌声とともに、自らの深部からわき上がる映像が次から次へと展開されていった――

 「今までの人生の記憶の中で、とくに『自分の傲慢さ』を象徴する行為が、次々とビジョンになって現れては消えていった。その一つひとつは取るに足らない、些細な出来事なのだが、その背後には『行為の主体がこの自分だ』という、一貫した“思い違い”があることがよく分かった。
 自我という傲慢な構造が、その思い違いを手放すことに抵抗し、恐怖を生んでいるのだ。その自我というものを手放し、ただ大いなる力にすべてをゆだねれば良いのだ」


 するとやがて目の前に、天使のような青年が現れて、天国へと連れられて行った。
 そこではたくさんの人々が楽しそうに漂い、光のまばゆさにひたすら圧倒されるだけだったという。
 そして天使のような青年から、「地上に戻って、この世界のことを伝えるように」と言われた。そのとき著者はこんな率直な疑問を投げかける――

 「妙な話だ。そもそも天国というものがあって、そこで楽しくふわふわと暮らせるのなら、なぜわざわざ、あんなに不完全な地上世界で面倒な人生を送らなければならないのだろうか。僕は反論した。
 しかし天使のような青年は、人は誰でも地上でやらなければばらない仕事があるので、それを終えてからでないと天国へ来られないのだと言う。
 冷静に考えると、説得力のある答えとは言い難いのだが、そのときはただ納得するほかなかった」――

  これは、臨死体験者の話にも近い内容ですよね。
 「あの世で得た真実への理解は、この世に持ち帰ることができない」と証言する人もいます。

 このような一般に「超常的」とされる意識レベルについて、著者は本の中で、「われわれは初めから全宇宙の情報を知覚していて、脳はその中から不必要な情報を『忘却』させることによって情報量をコントロールする働きをしている」という説を紹介している。


 また、ここでとても興味深いのは、「自我」の感覚についてだ。

 自分が人生でしてきた「傲慢」な行いや、「恥」とかをまざまざと振り返るのは、ちょっと身もだえてしまうほど嫌なことだろう。
 でも実は、そうした「行為の主体がこの自分だ」という認識というのは、単なる“思い違い”にすぎないのだと…。

 つまりは、その「自分が行っている」とか「自分が存在している」という根強い思いそのものこそが、傲慢さにほかならないのだと…。


 もちろん、周りの世界から分離した個としての「自分がいる」という、疑いようのない強固な感覚によって、この世界でのさまざまなリアルな経験が可能になるという側面もある。
 そして「自分が今いる場所に効率的に集中」したり、「地上でやらなければばらない仕事をする」のに役立つこともあるはずだ。


 でも、アレグザンダー氏が「分別や自我の意識を抱かせる部分は、高次元の知識や体験を得るうえでの妨げになっている」と説くように――、
 脳が、個としての「自分がいる」と認識する(そう思い違いをする)機能こそが、私たちの「苦しみ」や「恐れ」を生じさせるまさに根本原因なのでしょう…。

 苦しみや恐れのすべては単なる「脳の問題」であり、真実は全くの「ノー・プロブレム!」なのです。


 でもそう言うと…、
 大事な問題を問題としてとらえず、自分の傲慢さや恥をきちんと自覚しないような身勝手な人が増えて、社会が無茶苦茶になってもいいのか? なんて意見もたいてい出てくるものだ――。

 でも、個としての「自分がいる」という感覚を脳に生じさせたり、機能停止させたりする選択権は「私たち自身には一切ない」ということも、そもそもの根本的なポイントであり、「この世界のよくできたところ」でもあります…。


 その点も含め、「よくできているなぁ」と思いながら生きるのが、いい案配なのだろうと感じますね!




 結びのヒーリング・ミュージックは、結びのヒーリング・ミュージックは、Llewellyn「The Healing Pool」。
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プロフィル

Koudai Mitsuna

Author:Koudai Mitsuna
 
光奈 広大(みつな・こうだい)

 20年のあまりのサラリーマン生活を経て、いわゆる「ザ・マネーゲーム」を何とか卒業。今では束縛されない自由な日々を存分に味わっています!

 そうした中で心がけているのは、普通の日常的な行いを通じて、意識の進化を目指す「カルマ・ヨガ」。

 日々の喜びや学び、インスピレーションから得たスピリチュアルな気付きなどをブログで紹介しています。

 妻子と都内在住――。





http://facebook.com/koudaimitsuna

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